■「骨だけ残ればいい」盟友の言葉で一歩前へ
子育て真っただ中だったときは家庭を優先して仕事もセーブしていた堀井さんだが、長男が小学校に上がったあたりでは余裕も出てきた。
「子どもがだんだん手がかからなくなってきて、いただくオファーを断る理由がなくなっていくんですね。そうしてどんどん、仕事が回りだしました。お仕事をいただけるありがたさを、より実感できたんです」
現場の仕事を増やしだしたこの時期、堀井さんは自分の得意分野がナレーションであることを自覚していた。「声」だけが頼りとなるナレーションは、読み手の技術と経験が如実に出る仕事である。
「じつは仕事を断っていた時期、現場からの異動希望を申し出たことがありました。そのとき山田修爾アナウンス部長(当時)に『キミにはナレーションの才能がある。アナウンサーを辞めるなどと言わず、じっくり取り組みなさい』とお声かけいただいたんです」
そのとき堀井さんが思い浮かべたのは、母の顔だった。小学生のころ、母から毎朝教科書の3回音読を課されていた。忘れれば小学校まで追いかけてきた、母の教え。
「ナレーションは、コンマ何秒のタイミングを求められる世界。母が毎日、音読させてくれたおかげで、その下地になったんだと思う。母からもらったナレーション、母からもらった人生と思います」
仕事と育児の両立で、休む間もなく20年走り通した堀井さんを縛るものは、何もなかった。
「仕事にまい進できるって、こんなにうれしいことだったんだ、と」
なかでも憧れていたのは、看板番組のひとつ『世界遺産』の本編ナレーションだった。そこにたどり着くまで、ひたすら努力した。
「ほかの人が断ってしまうような仕事でもお断りせず、1行だけのナレーションでもお受けすることから始めます。それを続けているうちに、何行に増やせるか。
『世界遺産』は、番組スポンサーさんの“提供読み”を引き受け、それを完璧にこなせるまで何回でも吹き込みました。すると次には、プレゼント告知を担当させてもらえるようになり……」
どんな小さな糸口でも、見つけたら絶対にそれを捨てない、食らいついてつなげていく。そんな姿勢で取り組み続け、とうとう『世界遺産』本編のナレーションを手にしたのだ。
「3年くらいかかったと思います。不安だから努力する。努力しても不安になるからまた努力する。どんな小さなコピー読みでも、自分が満足できるパフォーマンスができるまで、徹底的にやるという思いでした」
すると、アナウンス部に各番組から入るナレーション依頼のほとんどが「堀井」指名で来るように。「困ったら堀井」は、スタッフ間の標語のように全社的にささやかれていたのである。
「報道の年間特別番組、皇室特番、深夜ドキュメンタリー『解放区』に夕方のニュース『Nスタ』……担当してみたかったすべての番組に、参加させていただきました」
しかしここ1~2年は、アラフィフ世代として「今後10年、15年の身の振り方」をいや応なく考える時期を迎えていた。
「昨年にアナウンス部の担当部長に任命され、その後は現場の仕事よりも組織を取りまとめる役割が増えていくのが明白でした」
せっかくつかんだナレーションでの定評も、後輩の育成を考えれば譲っていくべき立場だった。
さらに、ここ6年ほどアナウンサー採用担当として、就職希望の学生たちの声を多く聞いてきたことでインスパイアされるものもあった。
「私たち世代にあった『終身雇用の一流企業への就職』という希望がいまの学生にはなかったりする。スキルアップのために10年間、会社でキャリアを積むとか、社会的意義のある仕事を求めてベンチャー企業を希望するとか……」
仕事のスパンも価値観も変わってきた若者たちを見ていて、アップデートの必要性を痛感していた。
「長女が就職し長男も大学生となったこと、私自身の会社での立ち位置選択に迫られたこと、50歳という節目……さまざま重なって、選択肢のなかから出てきたのが『退社』『独立』だったんです」
堀井さんが「会社を辞めようと思うんだけど」と相談したのは、13年にラジオ番組で出会って以来、意気投合し、いまや盟友となったジェーン・スーさんだ。
その相談を受けたときのことを、スーさんが振り返る。
「今後のキャリアを考えるとき、選択肢のひとつとして『独立がある』と言う。私は『好きなようにやればいいじゃん!』と答えました。好きなことができるほうを選んでほしい、という意味です」
とはいえ昨今の不況下で「フリーアナ受難時代」ともいわれる。『OVER THE SUN』2月25日配信分では「バクチ打ちだよね〜」とスーさんは笑い飛ばしていたが……。
「ハッキリ言えばソロ転身も彼女にはチャレンジではないと思う。それだけのキャリアと経験値と、スキルがあるということです。性格からして用意周到でむちゃしませんから、食いっぱぐれることもないと思うし心配してません。むしろ若くして退社するアナウンサーのほうがよっぽど大変でしょ」
スーさんから激励を受けた堀井さんが、次に夫に伝えると、「いいと思うよ」の一言だったという。
「その数日後、夫が『この本、読んでみたら?』と手渡してくれたのが小説『老人と海』でした。初めて読んだんですが、いまの私に“ぴったんこカンカン”だった」
ヘミングウェイのこの最高傑作は、84日間不漁が続く老人が沖に出て、4日間の死闘の末についにマグロを捕獲する。しかし帰港までにサメに襲われ、マグロの身は食われてしまう、というあらすじだ。
「これにグッと来たんです。老いぼれたジイさんが意を決して沖に出て、自分を鼓舞して闘う。結果、敗れるが、生きて港に帰り着く。スーちゃんに話したら、『50歳で不安を選んで、そこに負荷をかけるいまのキミと同じ、最高じゃん。骨だけ残ればいいじゃないか』って言ってくれた。そうだ、私も、沖に出るんだ。ダメなら、また生きて岸に戻ってくればいいじゃないかって……」
そうして40代最後の冬の晴れた日に、堀井さんは辞表を出した。