「そんな生活を2年ほどしたころ、父は毎日、下着を汚してしまうようになっていました。私が大人用おむつを買ってきて、『お父さん、これって便利なんだよ』とさり気なく勧めても聞かないんです。娘の前で恥ずかしいという、父親の威厳もあったでしょう……」
父とレストランに行くときは、車椅子のシートにも工夫を施した。
「粗相しても吸収できるシーツをつけたんですが、シーツが外から見えると嫌だろうから、バスタオルを縫って、上から座布団を被せたんです。そうして着替えの衣類を持って、出かけました」
だが父は施設のタイムスケジュールとすこし違うだけでも、リズムが狂ってしまう。
「不意に粗相してしまったりして、二度と行きづらくなっちゃったお店もありました」
南野の説得にも、父はおむつを受け入れてくれない。だから特製のパット付き車椅子を用意しても、それもうまくいかない……。
「お父さん、これくらい、わかってくれてもいいでしょ?」と南野がちょっと声を荒げれば、父は父で娘に負けてはいられず、「わしが先に逝くとは限らんからな!」と憎まれ口。すると娘の南野も腹に据えかねて、負けじと言い返す。
そんなやり取りを経て、数年前にやっと父もおむつを受け入れてくれるように。
「私は子育て経験がありませんが、父と向き合った10年間、疲れたけれど、より父が好きになりました。年を取るって、現代人は70代くらいまでは元気で、気持ちも上向きでいられる人もいるけれど、80代になって、命の終い時期の5年くらい前になると“子ども返り”するんだなって。特におむつを受け入れてくれるころからは、“お父さんイヤイヤ期”に入ったり、赤ちゃんみたいな笑顔で食事したり」
そう思い起こすように笑顔をみせる南野。どうして父親と向き合うことにそこまで一生懸命になれたのか? と問うと、懐かしそうな目をして答えた。
「幼いころ、父からは挨拶や言葉遣いを躾けられました。なかなか眠れない私の枕元で、『太郎と花子』の創作話をして寝付かせてくれたのも父だった。
もうすこし大きくなってからは、神戸に車でドライブに連れて行ってくれて、父とふたりで映画を観て、プリンアラモードを食べて、ぬいぐるみを買ってもらって……」
それほど手塩にかけてくれた父にも、反抗期に八つ当たりすることもあったという。
「乱暴な言葉を私が言えば、すぐ『謝りなさい、陽子!』と、つかまえて叱ってくれました」
さらにデビュー後、21歳の人気絶頂期に南野が独立すると、会社員だった父は後に退職して、個人事務所社長として経営面でサポートしてくれたが、ときには心ない批判も……。