伊藤さおり「高校3年間で男子としゃべったのは、5言くらい」
画像を見る 高校時代の虻川と伊藤(右)の2ショット

 

■勇気をもらった森高千里の『非実力派宣言』

 

そんなとき、夢中になって聴いていたのが森高千里の曲だった。

 

「『17才』で森高さんの存在を知り、過去の作品を振り返って『ザ・ストレス』(’89年)に衝撃を受けました。ウエートレスのコスプレをしたCDジャケットの脚が本当にきれいで、もう別の生き物を見るよう。自分の脚がいちばんきれいに見えるように、ミリ単位でスカートの長さを調節しているという雑誌の記事を読んで、さらに感心しました」

 

ビジュアルばかりでなく、森高が手がけた詞の世界にもハマった。

 

「言葉選びがとてもユニークで、妙に心に刺さる。ストレスがすべてを台無しにするという『ザ・ストレス』の歌詞にも共感できたし、『非実力派宣言』(’89年)なんて、実力がなくて何が悪いのと開き直った歌。自分に自信が持てなかった私は、その言葉に勇気をもらいました」

 

『私がオバさんになっても』がリリースされたのは、高3のときだ。

 

「当時から口に出しづらい言葉だった“オバさん”を曲名にしてしまう感覚が斬新。非実力派と言いながらどんどんスターになっていく森高さんとは対照的に、私のほうはパッとせず……。最後まで進路が決まらなかった私と虻ちゃんは、先生に呼び出されてしまいました」

 

進学するにも、就職するにも、完全にタイミングを逃してしまった2人は、そろって合格がもらえた劇団に入ることに。

 

「着るものはオーバーオールとジャージ、食べるものはもやしと卵という絵に描いたような貧乏生活。友達とルームシェアしていたのですが、私は月1万6000円の家賃で、キッチンに布団を敷いて暮らしていました。『ザ・ストレス』で日々のストレスに耐え、『渡良瀬橋』(’93年)を歌っていい女気分に浸ったり、ビールのCMソングともなった『気分爽快』(’94年)に励まされたりしていました」

 

思うような活躍ができなかったとき、先に退団していた虻川さんからお笑いオーディションの誘いを受けた。

 

「なぜかこのときだけはすごくウケて、人生で初めて注目を浴びることに。プロダクションの社長にも『すぐにコンビを組むべきだ。今日、組んだらイタリアンに連れていってあげる』と言われて、21歳のときに虻ちゃんとお笑い芸人を目指すことになったんです」

 

ところが、ウケたのは最初だけで、その後、3年ほどは低迷。

 

「若い女性の大事な時期を、お金もない感じで暮らしていました」

 

『ASAYAN』(’95~’02年、テレビ東京系)の歌手オーディションに応募するなど、軸足がブレてしまうこともあった。

 

「同じ事務所にはアンタッチャブルさん、東京03さんたちがいて、ネタのクオリティが高いから、マネようとしても、頭が追いつきませんでした」

 

苦しんだ挙げ句、虻川さんと「実力派はもうあきらめよう。自分のできることをやろう」と、心機一転。カラフルなファッションと、オムニバス形式の短くポップなネタに切り替えた。

 

「すると、テレビの出演も増えていったんです。迷走していた私たちを救ってくれたのは『非実力派宣言』。背伸びするのをやめたからこそ、自分たちのスタイルを見つけられたのだと思っています」

 

【PROFILE】

伊藤さおり

’74年、埼玉県生まれ。高校のソフトボール部で出会った虻川美穂子と「北陽」を結成し’95年にデビュー、’01年にバラエティ番組『はねるのトびら』のレギュラーに抜てきされて一躍人気者となる。’14年に女児を出産、現在は静岡県に住み、子育てと仕事を両立している

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