岡田茉莉子、90歳 最高のパートナーを失っていま「あなた、もっと強い女になるわよ」
画像を見る 夫妻の縁を結んだ「秋津温泉」は岡田さんの代表作

 

■名画『秋津温泉』で吉田監督と出会い、やがてともに独立プロを興し彼の才能を支え続けた

 

岡田さんはデビュー以降、瞬く間に頭角を現していく。初めこそ岡田時彦の娘だから優遇されているのではないかと、嫉妬の視線にぶつかることもあった。

 

「帰宅するや母親に向かって『やめたい』と懇願した夜もありました。『何事も10年やってみなければわからないわ』という母の励ましに前を向くしかなかった」

 

そうした雑音も次第にかき消されていく。撮影所では原節子や高峰三枝子といった伝説の女優と寝食を共にし、月1本のペースで出演するようになる。まさに日本映画の黄金時代。悩む暇もない忙しさであった。

 

「10年はがんばってみよう」と思えた原動力として、「母親を表札のある家に住まわせたい」という目標があった。これは23歳でかなえた。

 

「ずっと居候生活でしたから、誰からもお金を借りずに目黒区八雲に和風建築の一軒家を購入したとき、(本名の)『田中』『岡田』と表札を並べて門に掲げました」

 

このころ岡田さんは、派手な顔立ちからか、『芸者小夏』の温泉芸者や『思春期』のアプレゲール娘のインパクトが根強く、奔放で気の強い女の役ばかりが与えられる。その一辺倒のイメージから脱却すべくわずか22歳の女優がある日、ひとりで撮影所長室をノックして直談判した。

 

「私は自分のイメージをガラッと覆す作品に出演したいーー」

 

このときの交渉は成功したものの、その後、岡田さんは24歳で松竹へ移籍。デビュー以来100本の映画に主演したころ、運命の出会いが迫っていた。

 

「ぜひ演じてみたい役が、藤原審爾の小説『秋津温泉』の新子でした。一本気な女性で、彼女へのシンパシーと、メロドラマへの憧れもあり、この作品に懸けてみたいと思ったの。会社のお偉いさんに提案したら、『自分でプロデュースするのなら』ということで、やるしかないと」

 

予算からキャスティングまで、すべてに責任がかかる重圧もあった。そこで岡田さんが白羽の矢を立てたのが新進気鋭の監督、吉田喜重であった。

 

吉田監督は東大仏文科を卒業後、松竹に入社。27歳にして『ろくでなし』で脚本・監督デビューしたばかり。岡田さんは既にこの脚本を読んで「底知れない才能が出てきた!」と感嘆していたのだ。さっそくオファーしたところ、「私はオリジナルしかやりません」という理由で断られてしまう。

 

「諦めずに2度、3度とお願いしたら、『では私流の秋津温泉でいいですか?』とようやく交渉が成立しました」

 

2人の縁をつないだこの作品の撮影中、「岡田茉莉子、吉田喜重と結婚を決意!」と本誌『女性自身』がスクープを打ったのだ。

 

「ロケ地の温泉郷にマスコミが押し寄せてきて、撮影どころではない騒ぎとなったの。松竹が『女性自身は入るべからず』って張り紙を貼ろうかって、あのときは私も吉田も憤慨しましたよ(笑)」

 

このころは『秋津温泉』を成功させることしか念頭になく、吉田監督と個人的に語り合うことさえ一度もなかったのだと、当時を振り返る。そしてこう続けた。

 

「でも、あの記事でお互いを意識するようになったことは否めないですね(笑)」

 

岡田さんはそもそも吉田監督の脚本を読んだことから、その才能に強く惹きつけられた。そして実際に本人と向き合ってみると、驚くほど博識で聞けばなんでも教えてくれる。その明晰さに、かつてない頼もしさを感じた。岡田さんが吉田監督を愛するようになるのは、時間の問題だったのだ。

 

ともあれ『秋津温泉』は大成功を収め、数々の映画賞を受賞。祝賀パーティで、岡田さんにとって忘れられない出来事があった。

 

「この時点で10年、女優として走り続け、栄誉ある賞もいただくことができた。これ以上のことはもう起こらないだろうから、母に『引退しようと思う』と告げたのです。母もこのときは引き止めるすべがなかったようで。私は壇上での引退スピーチも考えていたのですが」

 

ところがこの言葉を近くで聞いていた吉田監督から、『あなたの青春を捧げた女優としての10年が勿体無いと思いませんか』と諭され、一瞬にして翻意したのだという。岡田さんは壇上で、「命のある限り女優を続けます」と逆の決意をスピーチしていた。

 

「女優としての覚悟ができたのはこのときだったかもしれません」

 

『秋津温泉』が終わると、時間を作って会うようになり、互いの話をするようになっていた。プロポーズは、吉田監督が『嵐を呼ぶ十八人』を撮り終えた直後のこと。「これからも私と一緒に歩いてくれませんか」であった。

 

2人で映画を作りながら、ともに歩こうという意味に聞こえました」

 

岡田さんは懐かしそうにふわりとほほ笑む。実際に結婚生活はそのとおりになった。

 

64年6月21日師匠である木下惠介監督の立ち会いの下、無事に西ドイツ(当時)で式を挙げ、新婚旅行から帰国して早々事件が起こる。吉田監督は、挙式直前に監督した『日本脱出』のラストが無断でカットされていたことに抗議。「自分の撮りたいものを撮るには独立しかない」と松竹を退社し、夫婦で独立プロ『現代映画社』を立ち上げた。岡田さんは自分の見いだした吉田監督が才能を遺憾なく発揮できるよう支えたいという思いで、迷いはみじんもなかった。

 

「松竹に『辞めます』と挨拶に行ったら、『君まで辞めなくても。いばらの道だよ』と諫められましたが、『彼についていきます』と。吉田に、思い切り作品を撮ってほしかったのです」

 

そこでは吉田監督の『エロス+虐殺』『煉獄エロイカ』『戒厳令』など才気ほとばしる名作が生まれた。時代は70年安保、映画は時代特有の問題意識に吉田監督の独特のカメラワークと映像美が相まって、そのつど大きな話題をさらった。それらはのちにヨーロッパでリバイバルされ、吉田監督は国内より、世界で大きな名声を得ることとなる。

 

「彼の撮影するものは時代を先取りしすぎているから、撮っておけばいつか時代が彼に追いつくだろう、と確信していました」

 

吉田監督を支えるため、岡田さんは大ヒットした『人間の証明』など、現代映画社の作品以外にも数々の話題作に出演した。

 

「私がよその映画やドラマに出演し、そのギャランティも製作費に回す。このやり方で、私たちは一度もお金を借りずに映画を撮り続けることができました。これは私の誇りです」

 

2人は一日でも長く一緒にいようと約束した。だが、別れの朝は突然、訪れた。

 

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