■ずっと突っ込みをしていたから、「司会だけは無理だから」と言っていた
いつの時代も、萩本欽一はタブーを打ち破ってきた。高校卒業後、東京・浅草の東洋劇場で修業を始め、25歳の’66年、坂上二郎とコント55号を結成。翌秋、『大正テレビ寄席』(NETテレビ、現・テレビ朝日系)から出演依頼が来た。
「当時はカメラが固定されていて、フレームからはみ出しちゃいけなかった。迷ったけど、いつもと同じように舞台を駆け回った。怒られると思ってすぐ帰ろうとしたら、ディレクターが『僕らが間違っていた。また出てよ』と言ってくれた」
常識を覆した2人はスターの座を射止める。’68年、土曜夜8時枠で『コント55号の世界は笑う!』(フジテレビ系)が始まった。音楽やドラマ中心のゴールデン帯で、コメディアンの冠番組は異例だった。
コンビの活動を休止した’71年、萩本は日本テレビからオーディション番組『スター誕生!』の司会を要請された。
「あらかじめ、事務所に『司会だけは無理だから』と言っていたの。ずっと突っ込みをしていたから、前に進められない。でもね、嫌だなぁ〜と思った仕事に運があった」
池田文雄プロデューサーの「素人の味方になってくれ」という言葉に突き動かされた男は、またしてもタブーに挑戦した。通常、司会者は正面を向きながら、隣の出演者にマイクを差し出す。画面に2人が収まるようにするためだ。しかし、萩本はカメラに背を向け、わざと自分が映らないようにした。
「絵が汚なくなるからカメラマンは僕を画面から切るわけ。すると、素人がアップで映る。スターになる確率が倍になるのよ。散々、テレビに出ている僕を撮っても仕方ない。若いころ、エキストラでドラマに出ても、後ろ姿しか映らなかった。有名になったら、新人の顔をアップにしてあげたいと思ったの」
『スター誕生!』では森昌子、桜田淳子、山口百恵など数多のアイドルが生まれた。背景には、萩本の巧みな戦略もあったのだ。テレビの申し子はポツリと呟いた。
「偶然で数字なんて行かないですよ」
’75年に『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ系)、翌年に『欽ちゃんのどこまでやるの!』(NETテレビ)という冠番組がスタート。同年、萩本は修業時代に同じ舞台に出ていた人気踊り子で3歳年上の澄子さんと結婚した。
「若い放送作家が居候しているし、テレビ局の人が毎日打ち合わせに来るでしょ。スミちゃんは『子供との生活がままならない』と郊外に引っ越しましたよ。仕事も家庭もすべてうまくいく人生なんてない。運はいくつも転がってないのよ」
日本テレビの欽ちゃん番を務めた神戸文彦氏(83)が証言する。
「萩本さんは視点が違う。『ドラマってなんで全部横なの?』と疑問に感じて、『Oh!階段家族!!』という目線が縦のドラマができましたからね。どの番組も、入念にリハーサルして、本番で変えていく。何の準備もしないでアドリブしたら、それはデタラメだと教えられました。収録後の反省会は、いつも5時間を優に超えていました」
’79年の大晦日に始まった『全日本仮装大賞』も好調だった。’84年9月1日、生放送の13回大会では、母親と子供3人の『影絵遊び』が優勝した。演技が終わると、欽ちゃんは幼い長男にマイクを向けた。
萩本:練習はいつやるわけ?
子供:昼間。雨戸閉めて、ライトつけてたから、暑くてしょうがなかった。ウチにクーラーないから。
萩本:お宅、クーラー買わないわけ?
子供:もう涼しいからいらない。
萩本:どうしてお父ちゃん出なかったの?
子供:真面目だから。
萩本:じゃあ私、不真面目だ。
子供:わからない。
会場は爆笑の渦に巻き込まれ、視聴率は27.9%(関東地区/ニールセン調べ)に上った。
「生放送で素人が40組、200人くらい出場する。普通、そんな番組は成立しませんよ。でも、萩本さんは笑いも入れながら、全員の演技、表彰式をバランスよく時間内に収める。それを当たり前のように見せていた」(神戸氏)