山田邦子「倒れるなら現場で」レギュラー14本のなかマネージャーから言われた驚愕発言
画像を見る 立教大学水泳部で活躍した父のもとに生まれる、邦子3才の七五三(写真提供:所属事務所)

 

■小学校4年生の移動教室、夜の出し物でみんなを爆笑の渦に巻き込むダジャレを

 

邦ちゃんこと、山田邦子は’60年6月13日に東京の下町・荒川区に生まれた。

 

建設会社のサラリーマンだった父には、下町特有の見栄っ張りなところがあって、カラーテレビを近所でいち早く導入した。

 

「豪華ゲストが出演し、トークやコントまで楽しめる『ルーシー・ショー』という番組に影響を受けていましたね。マットレスを丸めてソファに見立て、母に頼んでカーテンで作ってもらったワンピースを着て、マネしていました」

 

邦ちゃんが、本格的に“笑い”に目覚めたのは小学4年のとき。

 

「日光を訪れた移動教室で、夜、出し物でショートコントを披露。妖怪に呼び止められて『なにか用かい』とやり取りするシーンに、みんなが大笑いしてくれたのが快感だったんです」

 

自信を深めた邦ちゃん。中・高を過ごした私立女子校では、クラスメートとコンビを組んで、天地真理や郷ひろみ、都はるみのモノマネ漫才でみんなを笑わせた。

 

「クラスの人気者で、校内では私を隠し撮りしたブロマイドが出回りました。まるでスター気取りでしたね」

 

短大進学後は、近くの早稲田大学にある寄席演芸研究会に入会。

 

「出たがりが多くて、テレビ局のスタッフが『ネタを3分できる人』と探しに来るんですね」

 

数々の素人参加番組でバスガイドネタなどを披露。短大卒業を控えた二十歳のときには、テレビ局のプロデューサーの目にとまった。

 

「それがネタ番組じゃなくて、ドラマでびっくり。『野々村病院物語』という、宇津井健さんや夏目雅子さんが出演する作品でした」

 

ところが、ドラマ撮影開始は短大卒業後の3月。すでに父親の縁故で建設会社への就職が決まっていたので、邦ちゃんは困った。

 

「ドラマに出たいって言うと、父は激怒して口も利いてくれなくなったんです」

 

ここで邦ちゃんは、同ドラマに出演していた関口宏に目をつけた。

 

実は立教大学の水泳部の指導者でもあった邦ちゃんの父は、関口の父・佐野周二さんの後輩であり、同大卒の関口とも面識が。

 

「関口さんに父を説得してほしいとお願いしたら、私たち親子が見たこともないような薄い肉を出してくれる、高級しゃぶしゃぶ店に招待してくれたんです。それで父も『宏が言うなら』って、私の芸能活動を認めてくれたんです。

 

後年、関口さんから、何年も前に亡くなった父の電話番号を『邦子、そろそろ登録を消してもいいかな』と聞かれたんですね。

 

多分、私の知らないところで、父は関口さんにずっと『娘のことを頼む』って言ってくれていたんでしょうね。若い私は父の優しさまで想像が至りませんでした」

 

芸能活動に専念し始めた邦ちゃんは、ドラマと並行してバラエティ番組にも出演し、初のレコード『邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)』をリリース。

 

「ドラマ撮影が終わるころ、バスガイドネタを見たフジテレビのスタッフに食事に誘われ、ステーキをおごってもらって。

 

その席で『10月から“ひょうきん族”をやるから、出ないか』って言われて、肉を食べちゃった後だから『出ます!』って答えたんです」

 

大手芸能プロを紹介してもらったが、“ひょうきん族”に出るなら、ビートたけしが所属していた太田プロがいいだろうと考えた。

 

「所属の女性タレントが男性ともめたり、結婚して辞めたりしていたものだから、社長からは『女性は面倒臭い』って言われたんですよ。でも、私のことをお姫様のように扱って、ケーキをぶつけられたり、泥の中を泳ぐような仕事はNGを出してくれていたみたい」

 

ここでも知らないうちに守られていた邦ちゃんは、“ひょうきん族”への出演を機に“唯一、天下を取った女性ピン芸人”へと急成長していくのだった。

 

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