■両親の猛反対を押し切り就職・結婚・離婚。深く傷ついた心を癒したのが映画だった
1972年(昭和47年)9月19日、東京都荒川区で生まれ、3歳からは北区で育った平塚さん。
「父は自宅の工房で歯科技工士をしており、母もその仕事を手伝っていました。近所のいじめっ子とクラスが離れる小3のころまで、私は泣き虫の女の子でした」
小中と地元の公立校を出て、都立小石川高校へ。
「高校では硬式テニス部で部長もやり、練習メニューも考案するなど、かなり熱中していました。当時、5つ年上の姉が私立の短大へ通っていました。音楽好きで、才能も認められ音楽大学への推薦も決まっていたのですが、親から『音大を出てメシが食えるのか』という猛反対があって断念させられ、それがきっかけで姉は心を病むんです」
そのことが、平塚さんの生活にも多大な影響を及ぼしていく。
「いつしか私は、家族に心配をさせない“いい子の妹”という役割を演じるようになっていました。実は心の中では常に学校になじめない自分がいたし、姉への罪悪感も抱き続けていて、しまいには何のために生きているのかと考えるようになり、高校から心理学などの本を読んでカウンセラーに興味を持ったり。『3年B組金八先生』もずっと観ていて、生徒に寄り添う先生になりたいと思って、早稲田大学教育学部に進みました」
意外だが、大学時代には体育会の女子レスリング部の創設メンバーになったこともあった。
「何を血迷ったのかと思うんですが(笑)、体育の授業を指導してくれたのがオリンピック銀メダリストの太田章先生で、誘っていただいたんです。最後は網膜?離になって、1年半でやめるんですが。ふり返れば、高校のテニス部もでしたが、そうやって何かに没頭して、家庭のストレスを発散していたのだと思います」
やがて、就職の時期を迎える。
「ずっと、いい子の仮面をかぶってきた私でしたが、どうしても親の言うとおりに大企業のOLになって楽しく仕事している自分を想像できずに、就職活動中はスーツ姿で家を出ても就職セミナー会場には行かずに、落ち着ける喫茶店に入り浸っていました。徐々に、自分の癒しの場となっていた喫茶店やカフェで働けないかと考えるようになるんです」
両親の猛反対を押し切って飲食業界に就職したが、結局、人間関係に疲弊して挫折する。同じころ、最初の結婚をして東京を離れたがうまくいかず、1年にも満たないで離婚して戻る体験もしていた。
つらい出来事が立て続けに起きたとき、深く傷ついた心を癒してくれたのが映画だった。
「もう生きていてもしょうがないとまで思っていたのが、在学中から大好きだった『バグダッド・カフェ』など、いくつもの映画作品にふれて、そうした悩みもちっぽけなものに思えるようになっていたんです」
そんな折、学生時代から通っていた高田馬場の名画座・早稲田松竹で、アルバイトを募集していることを知る。