「ドラマ・映画に多くのろう者が出演する環境ができてうれしい」日本人初ろうの映画主演女優・忍足亜希子語る「女優を目指した本当の理由」
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■私はろうなんだと気づいたのは小学生になってから。孤独を感じ、ある行動に…

 

’70年6月10日、忍足さんは北海道千歳市で生まれた。両親と3歳下の弟の4人家族だが、忍足さんだけが聞こえない。両親がそのことに気づいたのは、彼女が3~4歳のときだった。

 

「何度も名前を呼んでいるのに返事がなくて病院に連れていったら、耳が聞こえていないとわかったそうです。家からはろう学校に通うのが難しかったので、4歳のときに家族で横浜に引っ越しました」

 

1年遅れでろう学校の幼稚部に入学したため、先生と2人きりでの発声の特訓があり、わけもわからずつらかった。

 

「弟が両親としゃべっているのは知っていました。最初は『ママ』とか『パパ』くらいですが、そのうち弟のほうが言葉をたくさん覚えて、両親とペラペラしゃべるようになると、私だけ違うと思うようになりました」

 

補聴器も頭の痛くなる機械でしかない。音は補聴器をつけると飛び込んでくる不快な刺激だった。なぜ、家族のなかで自分だけ不快な機械をつけねばならないのか。自分は何者なのか。そんな不安に幼い心は押し潰されそうだった。

 

「私はろうなんだと気づいたのは小学生になってから。学校に行けば、ろうの友達がいっぱいいて安心感があるけれど、家に帰ると聴者の世界。食卓での会話でも、私だけ内容がわからず、一人なんだ、孤独なんだと気づいたときがあったんです。そこで初めてわかりました。私はろうだから、声を出して、言葉をしゃべらなくては伝わらないし、しゃべるためには言葉を勉強しなければならないのだ、と」

 

当時のろう教育は、口話中心で、相手の口の動きを読んで、言葉を理解し、声を出して話す教育だった。手話によるコミュニケーョンは禁止。社会で聴者と同じに見えることが何より重視されたのだ。

 

忍足家は、ろうを障害として扱わなかった。「聞こえない人ではなく、人と違うだけ」という教育方針で、父は娘が気後れしないようにと、どんどん外へ連れ出した。家族で、海にも山にも行ったし、キャンプもした。海外にも連れていってくれた。

 

両親の深い愛情に包まれて、忍足さんの不安は解消していったが、将来の夢は、ろう学校の教師にことごとく否定されてしまった。

 

「父は航空機の仕事をしていたので、私は母のおなかにいたころから飛行機に乗っていて、客室乗務員のキビキビした態度や優しい心遣いに憧れていました。でも、ろう学校では『無理だよ。お客さんに何か聞かれて対応できる?』と言われて。漫画家もいいなと思ったら『日本語が正確にできないと難しいよ』と言うのです。たしかに国語は苦手です。耳から入る言葉を習得できないから、私の中に“日本語”はない。外国語と同じです。“てにをは”が難しくて結局、漫画家も諦めました」

 

目的もないまま短大に進学し、流されるままに銀行に就職した。

 

「それでも今があるのは『アイ・ラヴ・ユー』のオーディションに行ったおかげなんです」

 

何の希望も持てぬまま、無為な日々を送っていた彼女に訪れた大きな転機。この一大チャンスを忍足さんは逃すことなく、自らの力で果敢につかみ取っていく。貯金を目的に銀行員として働き、5年がたった26歳のときだった。知人から、「ノッポさんがやってるNHKの“手話歌”って興味ある?」と、紹介され、急遽、番組に出演することになった。ノッポさんの番組は幼いころからずっと見ていた。セリフのないパントマイムだから、ろう者が見てもわかる。

 

「そのノッポさんと共演できることが楽しかったし、スタッフさんもいい人ばかり。こういう世界もいいなぁと、初めて思ったんです」

 

『アイ・ラヴ・ユー』のオーディションを知ったのは、番組出演後、銀行を退職してから1~2年たったころだ。

 

「友人が熱心に勧めてくれたんです。当時の映画やドラマのろう者の役って、寂しくて孤独というイメージ。もっとリアルなろう者を知ってほしくて応募しました」

 

手話は短大に入って覚えたが、演技経験はもちろんゼロだ。

 

「まさか受かるとは思っていなくて。でも、合格すると、ろう者初の主演ということで、責任を強く感じました。よし、これは女優として頑張らねば! と思いました」

 

(取材:栃沢 穣/文:川上典子)

 

【後編】「違う世界も面白い」日本人初ろうの映画主演女優・忍足亜希子語る“にぎやかな家庭生活”「聴者の夫とは一度破局」「娘は言葉より手話を先に覚えてくれた」へ続く

 

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