■「優希は言葉より先に手話を覚えてくれたんだと思います。とてもうれしかった」
結婚から3年目、’12年3月7日に長女・優希さんが誕生した。41歳での高齢出産だ。分娩中は、医師も助産師、看護師もマスクをするため口元が見えず、ろうの妊産婦は意思の疎通が難しくなる。頼みの三浦さんは出産予定日に名古屋で舞台のリハーサルがあり、立ち会えそうにない。そこで、事前に「息んでください」「息を吸ってください」などと書いたパネルを用意してもらった。
「どんなに痛くても、頑張ってパネルを見るぞ! と、覚悟しましたが、出産が2日早まって、三浦も一緒に分娩室に入れたんです。通訳してもらえて心強かったです」
日常生活には、思わぬところで、ろう者に不便なこともある。たとえばクレジットカード。カードをなくすと電話しかカード会社への連絡手段がなく、困ったことがあった。三浦さんが電話して「本人は声が出ない」と伝えたが、カード会社側は、声が男性で本人確認ができないの一点張りだった。
「救急車も電話です。最近、ろう対応の119番、110番もできたようですが、20代のときに熱中症で運ばれた際、名前や住所を聞かれて困りました」
子育てにも不便はある。今回の映画にも描かれているが、赤ちゃんが泣いていても、ろう者の親が赤ちゃんの見えない場所にいたら泣き声で気づけないという現実だ。
「うちは、優希が泣くとお知らせの黄色いランプがピカピカ点滅する機械をネットで調べて買いました。顔を見れば、おなかがすいたのか、ウンチなのかはわかります。私は手話、三浦は声で話しかけ、どちらも覚えてくれたらいいなと思って育てました」
教えたわけでもないのに、赤ちゃんのときから優希さんは忍足さんをジーッと見た。忍足さんが手を動かすと、その手を追うように見ていたそうだ。生後10カ月のとき、優希さんは離乳食を食べながら自分の頬を軽くたたいた。「おいしい」の手話だった。
「言葉より先に手話を覚えてくれたんだと思います。とてもうれしかったですね」
まもなく2歳というころ、狭い道を一緒に歩いていると、ふいに優希さんが体を寄せてきた。後ろから車が来ていることに気づいて、ママに教えてくれたのだ。
「三浦がいつも『ママは聞こえなくて、車に気づかないことがあるから、助けてあげてね』と言っていたようです」
すくすく育って今年、優希さんは中学1年生になった。映画の主人公と同じコーダだが、映画の少年のような苦悩はないようだ。
三浦・忍足家は音がなくても手話が飛び交い、いつもにぎやか。家族で損保ジャパンの手話通訳サービスのウェブCMにも出演した。
「娘と共演のオファーをいただいたときは『娘もですか?』と驚いて正直、迷うところはありましたが、娘が『やりたい』と言うので。楽しくやっていて安心しました」
優希さんは’21年公開の映画『ある家族』にも、三浦さんと共演したが、両親の仕事に興味があるかどうかは未知数だという。
「『イルカの飼育係になりたい』とも言っています。自由に、いろんな夢を持っています。私は夢が持てなかったから、娘には好きな人生を歩んでほしいと思っています」
優希さんの友達は皆、忍足さんがろう者の女優だと知っている。手話で挨拶もしてくれる。
「私が子どものころは手話をしているとジロジロ見られ、小学生同士でも『耳、聞こえないの?』『声、変だね』といじめられることもありましたが、今は違うようです」
社会の手話の認知度は、ずいぶん変わってきたようだ。
「娘が小学生のとき、クラスで会社をつくる授業があったのですが、娘は手話の会社をつくって手話に興味のある人を集めて教えました。けっこうな人が集まったそうです。
クラスの皆が手話を理解していることに驚きました。『手話って面白い』『カッコいい』と言ってくれます。いま手話は、小学校の教科書に載っているんですよ。時代が変わったと感じています」
’17年、夫婦で手話教室「アイ・ラヴ・サイン」を開校した。
「ろう者の手話を知りたい、生きた手話を学びたいという人から相談されたことがきっかけでした」