「5年生存率が5%下がる」秋野暢子、食道がんステージ3の決断。その時、長女とマネージャー姪の反応は?
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■11年間の不妊治療、子供をあきらめた後に妊娠。出産1年半後に母が急逝

 

秋野暢子は’57年1月18日、大阪府で生まれた。父は船場の呉服店の経営者で、裕福な家庭だった。

 

「9歳上の兄には、お手伝いさんが2人もついていたと聞きますが、私が物心ついたころには、父は借金の保証人になって貧乏生活に。糊口をしのぐために、母は着物のお針の内職をしていました。針が危ないからと、母がそばに寄らせてくれなかった記憶があります」

 

父は債権者から逃れるため、地方の知人に匿われており、母が矢面に立ち家族を守った。

 

「借金取りがくれば『金返せ!』って怒鳴られますから、子供の私にとっては恐怖そのもの。男の人が怖くなって、吃音になってしまったんです。小学校で出席を取るときも、先生が男性だと『はい』と言えないほどでした」

 

そんな状況の秋野を見た小5のときの担任が、演劇会でおどけた役を秋野に与えた。

 

「えんぴつの国を舞台にしたお芝居で、HBやBが出てくるんですが、私はFの役で『Fざんす』と登場。すると、生徒ばかりでなく保護者や先生方も大笑いして、体に電流が走ったんです。担任から『あなたは自己表現できないけれど、他者になると表現できるから、演劇が盛んな学校に』と勧められて、中学受験しました。進学先が仏教系の学校だったため“死には抗えない”という教えを刷り込まれたことも、がん治療をめぐる考え方の礎になっているのかもしれません」

 

演劇部のコンクールに出場すると、テレビ局や劇団関係者の目に留まり、ローカルテレビのドラマなどの役をもらえるようになった。

 

そして18歳のとき、NHK連続テレビ小説『おはようさん』(’75年)のヒロインに抜擢。その後も山口百恵主演の『赤い運命』(’76年)など話題作に出演し、着実に女優としてステップアップしていった。’83年の結婚後(’01年に離婚)には命と向き合った。

 

「どうしても子供が欲しいという思いがあって、11年間も不妊治療を続けました。その間、流産を2回、子宮外妊娠を1回経験しました。子宮外妊娠のときは左の卵管を摘出しましたので、もう無理だろうと子供をあきらめたんです」

 

不妊治療をやめて、夫婦2人だけの生活を想定して家のリフォームを始めたところで、妊娠が判明した。命というのは人智を超え、望んでも恵まれないこともあるし、思いがけないタイミングで授かることもあると痛感したのだった。念願の子を授かった1年半後には、母の死に直面した。

 

「母が76歳のときに病気を患い、医師から『延命治療をするかどうか、1時間以内に決めてください』という状況に……」

 

母は60歳のときに日本尊厳死協会に入会し、延命治療を拒否する旨を秋野に伝えていた。

 

「迷った末に、母の希望をかなえる決断をしました。でも、どうしても“自分が母の寿命を決めてよかったのだろうか”“延命したら、後で息を吹き返し元気で過ごせたのかも”という後悔の気持ちが、何年も心の中に残ったんです」

 

転機は、秋野自身が還暦を迎えたタイミングだった。

 

「自分自身の死を考えたとき、私は離婚しているし“一人娘に迷惑をかけたくない”という思いが生じたんです。そのとき“きっと母も同じ気持ちでいたんだろう”とに落ちて、あのときの決断を受け入れることができたんです」

 

秋野は母と同じように日本尊厳死協会に入り、延命治療しない方針だと夏子さんにも伝えた。

 

「娘は“ふーん”という感じで、リアルに感じられないようでしたけどね(笑)」

 

だが、こうした意思表示に触れたことで、秋野のがんの治療法をめぐって“たとえ命が短くなっても、自分らしく生きたい”という決断を、夏子さんは尊重することができたのだろう。

 

(取材・文:小野建史)

 

【後編】秋野暢子「小学校卒業式を見るまでは!」食道がん“鬼退治”の新たな仲間は初孫へ続く

 

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