《苦節30年→韓国で大ブレイク》歌心りえさん 声帯を痛め喉が血だらけに…“どん底”を救った家族の言葉
画像を見る マイクを握る歌心さん。夫が営む下北沢の音楽食堂「空飛ぶこぶたや」にて

 

■デビュー後まもなく、ポカリCMソング、冬ソナ挿入歌まで担当

 

「歌は幼いころから好きでしたが、歌手を志したのは高校生のころ。地元栃木でNHKの『のど自慢』が開催され、応募して出場しました。そのときステージで歌うことの喜びを知り、それがきっかけで歌手を目指すことにしたんです。

 

学生時代にはオーディション雑誌に応募をしたり、当時通っていた英語の専門学校の学園祭で歌を披露していましたね」(歌心さん、以下同)

 

1993年、とあるオーディションの最終選考に残るが惜しくも敗退。

 

「それでも諦めず、デモテープをレコード会社に送りました。そして1995年、姉とともに『Letit go』のメンバー『八塚りえ』としてワーナーミュージック・ジャパンからデビューしました」

 

デビューしてまもない1995年9月、歌心さんに早速大きなチャンスが訪れる。セカンドシングル『200倍の夢』が、なんとポカリスエットのCMタイアップ曲となったのだ。

 

「とても古い曲なのに、韓国のコンサートで披露するとすごく反響があって。CMに起用されたからなのか、たくさんの人が知っていてくださるのがうれしいです」

 

その後はソロ活動をする一方で、ピアノとチェロ、ボーカルによるクラシカルポップスユニット「September」を2004年に結成した。

 

「Septemberでは、当時、韓国ドラマにインスピレーションを得て、『冬のソナタ』『秋の童話』『夏の香り』や『私の頭の中の消しゴム』などの挿入歌の日本語バージョンをリリースしています。

 

有名作品を担当したことで、『韓国進出できるんじゃない!?』と期待していたんですが……オファーの連絡はゼロでした(笑)」

 

2008年には、音楽仲間であった夫と結婚。ライブハウスを併設したレストランを経営しており、歌心さんも現在まで、店のステージで歌いながら手伝いをしている。

 

「実はこのころまでは『Rie』という芸名で活動していました。しかしもっと印象に残る名前にしたいと思い、『歌は心』『心を伝える歌』をモットーに“歌心りえ”という名前に変えました」

 

「歌心りえ」として活動するようになってからも、ボイストレーナー、バックコーラス、イベント出演など歌に関わる仕事を続けてきたという。しかし、知名度が劇的にアップすることはなかった。

 

「2014年、41歳のときに娘を出産し、2年ほどは歌手としての活動を休んでいました。でも、お店で娘を抱っこしながら歌ったり、寝ている横で歌ったり……。そのときの音源を聴くと、娘の泣き声が入っています(笑)。 とにかく、歌うこと自体は続けていましたね。歌をやめようと思ったことはありませんでした」

 

しかし、2019年、歌と向き合う歌心さんに壁が立ちはだかるーー。

 

「声帯を痛めて声を失ったんです。そのときは数週間で治ったのですが、2年前に再び声帯を壊してしまいました。このときは、声が出ないばかりか喉が血だらけになるほどで。筆談しかできませんでした」

 

治療も激痛でとてもつらかった、とこぼす歌心さん。

 

「私が歌えない間に、お店でプロのミュージシャンたちが演奏するのを見て、『こんなにうまい人たちがいるのに、私なんて必要ないんじゃないか……』と初めて弱気になりました。“引退”の2文字も頭をよぎったのです」

 

どん底の状態を救ったのは、10歳の長女と夫だった。

 

「『お母さんの歌が大好きなの。その歌をまたみんなに届けて』と娘が励ましてくれたんです。また、私の落ち込みをしばらく見守っていた夫も『あなたには歌しかないでしょ』とそっと背中を押してくれました。ものすごくありがたかったですね」

 

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