■『ふぞろいの林檎たち』でブレーク、八面六臂の活躍で「天狗になっていました」
チャンスを生かしたことで、運命が好転していく。’83年、『ふぞろいの林檎たち』(TBS系)のオーディションに合格し、落ちこぼれ大学生の西寺実を演じた。敬愛の意味を込め、柳沢を“先生”と呼ぶ谷本綾子役の中島唱子が話す。
「(中井貴一など主要キャストの)8人が同じ楽屋だったんですね。柳沢先生は、新人で高校生の私にもすごく気を使ってくれて、輪の中に入れるようなムードを作ってくれました」
第5話では、中島が柳沢をビンタする場面が2度あった。
「スタッフから『リハーサルも本番も全部本気でやれ』と言われていたから、10回くらい思いっきりたたいていたんです。当時は加減の仕方もわからない。柳沢先生の顔がゆがんだみたいで、ADさんから注意されました。でも、本人からは何も言われませんでした」
’83年末、柳沢は「植物園」という事務所で小山明子のマネージャーから「2人で一緒にやらないか」と誘いを受ける。数週間後、返事を迫られた彼は承諾し、劇団ひまわりを退団。大手事務所が立ち並ぶ芸能界において個人事務所を設立し奮迅の活躍を見せた。
「大変でしたよ。でも、当時はテレビが強くて、プロデューサーが『柳沢慎吾じゃなきゃダメだ』と熱意を持って、ブッキングしてくれた。僕にも勢いがあった。事務所にはその後、高橋ひとみも入ってきて、徐々に拡大していきました」
’84年は連続ドラマ4本、映画2本に加え、『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のレギュラーも務めた。翌年も『ふぞろいの林檎たちII』をはじめ八面の活躍を見せた。
「天狗になっていましたね。『ジュース持ってきて!』とお願いして、好みと違うものがくると、『ちょっと! パインじゃなくて、ストロベリー』とかね」
そのころ、六本木アマンドの裏にある美容室に通っていた柳沢は4歳年下の一人の女性と出会う。
「前の担当者が結婚退職して、新しい人になったんですよ。シャンプーのとき、『春なのにどこも行かないの?』と聞いたら、『誰も誘ってくれないんですよ』と言うので、自分に気があるのかなと勘違いして、声を掛けたんですよね」
程なくして、2人は交際を始める。だが、柳沢のスケジュールは朝から晩まで仕事で埋まっていた。
「キツかったですね。あのころ、ドラマを4?5本掛け持ちしていた。20代で遊びたい盛りなのに撮影が終わっても家に帰ってセリフを覚えなきゃいけない。『もう嫌だ。芸能界なんてやめたい』とイライラがたまっていきました。眉間にシワを寄せて、一夜漬けで台本読んでも、頭に入らないんですよ」
NHK連続テレビ小説『はね駒』で、福島生まれの橘嘉助(柳沢)が「もっと世界を見なきゃダメなんだよ。都に行ってよ」と力説するシーンがあった。だが、その「都」の言葉が出てこない。すると、母親役の樹木希林がフォローした。
柳沢:あそこに行ってよ。
希林:あそこって、どこだい?
柳沢:あそこだよ。
希林:都かい?
柳沢:お~、都に行ってよ。
ディレクターが「はい、もう一回いきます!」とNGを出した。すると、希林が助け舟を出した。
「いいんじゃない? 舞い上がってる設定だから、私が『都』と言っても大丈夫だと思う」
NGはOKに覆った。収録が終わると、希林が「今日車で来てる? ウチまで送ってよ」と柳沢に声を掛けた。2人きりの車内でアラベスクの『今夜もロック・ミー』を流していると、希林が「静かにしてくれる?」と促した。雨の降る夜道で、ワイパーの音が時を刻む。閑寂のなか、彼女が切り出した。
希林:もうやめようと思ってるんでしょ、この仕事。
柳沢:えっ……。なんでわかるんですか?
希林:顔を見ればわかるわよ。今、忙しいんだって?
柳沢:そうなんです。テンパっちゃって……。
希林:いつか必ず終わるから。好きで始めたなら、与えられた仕事は最後まで頑張りなさい。一日は早いよ。アッという間だから。
「希林さんの言葉で心のモヤモヤが晴れました。どんなにつらくても、いつか必ず終わるんだなって」
大女優の一言をきっかけに、柳沢は自分を取り戻す。’86年8月4日、『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演すると、笑いに厳しい黒柳徹子に凝視されながら、「ひとり甲子園」を10分以上熱演した。
「周りから『いい度胸してるな』って言われました。結構、プレッシャーが好きなんですよ。ギャグに厳しい徹子さんも笑ってくれました」
(取材・文:岡野誠)
【後編】《知られざる結婚生活33年》柳沢慎吾「妻の誕生日には毎年、赤いバラ50輪」1週間口を聞かない夫婦ゲンカもへ続く
画像ページ >【写真あり】神奈川県小田原市で青果店を営んでいた両親と姉とともに。姉は不朽の名作「ひとり甲子園」の“生みの親”でもあった(他3枚)
