■面会はすべて断って…美学を貫いた晩年
「それで昨年の夏、渡米する前に久しぶりにご挨拶したいと思い、ご自宅に伺えないかと事務所を介して美輪さんにご連絡を差し上げたんです。すると、美輪さんのほうからお電話をくださって、少しお話しすることができました」
だが、直接会うことはかなわなかった。
「できればお目にかかりたかったのですが、お話をうかがうと、テレビには出演されていても、局に着いて車を降りたあとは、ずっと車椅子で移動されていて、ご自宅でもなかなか思うように体が動かせない、というようなことで、
『そういう姿を人には見せたくない』と。実際にご体調が悪いのと、一種の美学と、恐らくはその両方で、面会は基本的にお断りされているということでした」
まもなくニューヨークへ渡る予定だった平野さんは、そのことも美輪さんに伝えた。
「ええ。美輪さんご自身のニューヨークでの思い出を色々と話して下さいました。とにかく『用心して行ってらっしゃい』と、本当に僕のことを気遣ってくださいました」
しかし、その声には以前のような力強さは感じられなかったという。その電話が、結果的に美輪さんとの最後の会話となった。
歌手や俳優、芸術家としてだけでなく、生き方そのものが多くの人を魅了した美輪さん。平野さんも、魅了された一人だったという。もっとも、最初から熱烈なファンだったわけではないという。
「子どもの頃、テレビで見て『この人はいったい何なんだろう』と思ったのが最初でした」
平野さんの世代にとって、美輪さんは、1960~70年代の“前衛芸術家”というより、テレビで強烈な存在感を放つ「不思議な人」だったという。
その印象が変わったのは、平野さんが三島由紀夫に傾倒するようになってからだ。三島作品を読み、美輪さん――当時の丸山明宏さん――が三島と深く交流していたことを知る。
「子どもの頃にテレビで見ていた美輪さんと、三島由紀夫と交流を持っていた丸山明宏という存在が、自分の中でつながっていったんです」
さらに、美輪さんが劇作家の寺山修司や、作家の故・瀬戸内寂聴さんら、多くの文化人に愛されていたことも知り、「どういう人なんだろう」と興味を抱くようになったという。
