女優・歌手として活躍し、日本で初めての肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を設立した宮城まり子さんが、3月21日早朝に亡くなった。93歳だった。
訃報を受け、上皇ご夫妻は22日に宮内庁上皇職を通じて学園に弔意を伝えた。障害者福祉を熱心に支援されてきた上皇ご夫妻は、宮城さんと40年以上にわたる交流があった。
「亡くなる直前まで施設の子どもたちを気にかけていました」と、都内の病院で宮城さんの最期を看取った学園の教諭・梅津健一さんが明かす。
宮城さんが亡くなる3日前には、「ねむの木学園」から2人の生徒、としみつさんとつとむさんがお見舞いにやってきた。
「静岡で8月にするコンサート、ちゃんとやらなきゃね」
彼らにそう語りかけたのが、梅津さんが聞いた宮城さんの最後の言葉だった。彼ら2人は美智子さまとも縁があるのだという。
「’14年3月に横浜で開催した学園の美術展で、美智子さまに3枚の絵をお求めいただきました。それが、としみつくんの『雪だるまの赤ちゃんエーンエーン』と『涙の木』、つとむくんの『ガムラスタン通り』だったのです」
実は’94年に初めて「ねむの木学園」を訪問されたとき、『雪だるまの赤ちゃん~』を気に入られていたという。20年間も、この作品を思い続けていらっしゃったのだ。
’14年の美術展後、宮城さんは本誌にこう語っていた。
「としみつくんとつとむくんは絵のほかにも音楽や茶道も大好きで、兄弟のように仲よしなの。いまや、ねむの木学園を代表するアーティストです」
学園の子どもたち70人と職員で宮城さんとの「お別れ会」が催されたのは、3月27日。としみつさんは子どもたちを代表してお別れの言葉を述べ、つとむさんは総合司会を務めた。
“私はねむの木のお母さん。皇后さまは日本のお母さんなのよ”
宮城さんは、子どもたちにそう説き聞かせていたという。
「美智子さまが個人的に2人の絵を高く評価してくださったことを、宮城先生はとても喜んでいました。としみつくんとつとむくんにとって絵を描くことへの励みにもなったのだと思います」(梅津さん)
美智子さまとまり子さん、2人の“母”の思いは、子どもたちの心の中で輝き続ける――。
「女性自身」2020年4月14日号 掲載