■ゾウに会えることがどれだけ尊いことか
百合子さまは、1923年(大正12年)、旧河内丹南藩主家の高木正得子爵の次女として生まれた。母は入江為守子爵の次女の邦子さん。昭和天皇に仕えた入江相政侍従長の姉だった。
百合子さまが、昭和天皇の末弟で、7歳年長の三笠宮さまと出会われたのは17歳のとき。学習院女学校のご卒業と同時にご婚約が決まった。
小田部さんが続ける。
「戦前の宮さま方は、幼少のころから家族と離れて、それぞれ独立した個人として日常の暮らしをなさるのが習わし。
周囲は大人の側近ばかりで、同年代の友人もあまりつくれないさびしい環境。
そうしたなか結婚によって生涯の伴侶ができることは、宮さま方にとってはじめての家族ともいえる豊かで温和な存在との人生のはじまりを意味しました」
三笠宮ご夫妻の結婚祝いの晩餐会が行われたのは真珠湾攻撃の前日。百合子さまの結婚と子育ては、戦時下で始まった。
「新婚生活は、戦前、当時の皇族のならいのとおり陸軍の軍人となられた宮さまの職務が優先され、不在の日々も。ときに中国・南京に赴任されるなど三笠宮さまも生死に関わる環境に置かれ、百合子さまは伴侶としてその心配をされながらも、それを口に出せない生活を重ねられていたようです」(小田部さん、以下同)
終戦末期には、B29の空襲で赤坂御用地にあった三笠宮邸が焼失。百合子さまは防空壕で過ごされたこともあった。
お二人は、寬仁親王、宜仁親王(桂宮)、憲仁親王(高円宮)、甯子さん(近衞忠煇夫人)、容子さん(千政之夫人)と5人のお子様に恵まれた。
百合子さまは、子育ての悩みや三笠宮さまの何げないお言葉に、心を痛められたことを育児日誌に綴られていた。
〈授乳は赤ちゃんにとって絶対的のもの重大なものと一生懸命しているが、(中略)周囲の理解あってこそ十分なことが出来るのだ。(中略)誰も助けてくれないので、すべての事に亙って自分から思いつき、しなくてはならない。心身供に疲れたという感じ〉(『高円宮憲仁親王』より)
戦後、三笠宮さまは、皇族の身でありながら、古代オリエント史の研究家として活躍。多忙な日々を過ごされていた。
「百合子さまは、戦後、研究者の道に進まれた宮さまの勉学の支援、たとえば、多忙な宮さまのためにノートの清書をされていたことはよく知られています。
またフォークダンスなどの社会活動をされたときにも、ご一緒に踊られるなど、宮さまの活動のよき理解者であり支援者でもありました。
宮さまは、中東などへの現地視察も数多くこなされてきました。そうした海外での視察研究にも百合子さまは同行し、写真撮影など支援もされてきました」
身をもって戦争の悲惨さや不条理を知った三笠宮さまは、戦後、先の大戦の反省を常に口にされていた。
「宮さまは、歴史研究のなかで、戦争がない社会をつくるためには、平和の期間を長く保つために最大の努力を尽くさねばならない、という強い思いがありました。
百合子さまも、表立って『平和への思い』を語ることはなくとも、宮さまに寄り添って生きてきた歩みそのものから強い信念を感じられます。
戦争によって不幸な状況に追いやられるのは人間だけでない。動物園に行くとゾウに会える、という当たり前のことが、どれだけ尊いことかを示されたのではないでしょうか」
2002年に三男の高円宮憲仁さま、2012年に“ヒゲの殿下”と親しまれた長男の寬仁さま、2014年には次男の桂宮宜仁さまと、3人のご子息に相次いで先立たれた。
2016年には、70年以上の歳月をともに歩まれた三笠宮さまが100歳で息を引き取られた。
その後、百合子さまは、当主として三笠宮家を守ってこられた。
「百合子さまは、毅然たる芯の強さをお持ちになりながらも、さまざまな困難にあっても動揺せず、ひとつひとつを受け止めながら、強いお心で皇室の品格を支えてこられたと思います。
愚痴のような言葉はあまりうかがったことはありません。また気丈で心の強さがあることも当然ながら、事態に柔軟に対応していくお力も備えておられたのだろうと感じます」