旧宮内庁長官公邸で生活されている信子さま /(C)JMPA 画像を見る

元日の能登半島地震、翌日の日航機と海保機の衝突という波乱の幕開けとなった2024年。その後も、大谷翔平が電撃婚&「50-50」達成、与党が衆院選で大敗、トランプ前大統領が返り咲くなど、国内外問わず衝撃的なニュースが相次いだ。そこで、本誌が目撃してきた2024年のスクープのなかでも、とりわけ反響の大きかったものを改めて紹介する。

 

11月15日に老衰で薨去された三笠宮妃百合子さま。崇仁さまが16年に薨去されて以降、三笠宮家を守り続けてこられてきた。今年3月から聖路加病院に入院し、容体が悪化されてからは、2人の孫である彬子さまと瑶子さまもお見舞いに駆けつけられた。そんななか、姿を見せられなかった人物とは――。(以下、女性自身2024年12月3日号)※年齢は掲載当時のママ

 

いまにも雨が降りだしそうな厚い雲が立ち込めた空の下、天皇皇后両陛下をはじめ、皇族方が次々と、赤坂御用地にある三笠宮邸を弔問された。

 

「11月15日朝、三笠宮妃百合子さまが、老衰で薨去されました。百合子さまは’24年3月から聖路加国際病院に入院されていました」(皇室担当記者)

 

百合子さまは高木正得子爵夫妻の次女として誕生し、1941年10月に18歳で昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王と結婚された。

 

「101歳のご生涯のうち、80年以上を皇族としてすごされたのです。夫である三笠宮崇仁さまが’16年に薨去された後は、当主として三笠宮家を守り続けていらっしゃいました」(前出・皇室担当記者)

 

宮中は悲しみに包まれているが、百合子さまの薨去によって生じる波紋を心配している関係者は少なくないという。前出の皇室担当記者が続ける。

 

「百合子さまのご容体が悪化していることが判明し、イギリスを訪問されていた孫の彬子さまは緊急帰国して連日、ご入院先の聖路加国際病院へお見舞いに行かれていました。

 

また、もう一人の孫である瑶子さまや高円宮妃久子さまら、ご家族がこぞってお見舞いするなかで、“長男の妻”である寬仁親王妃信子さまだけは病院に姿をお見せにならなかったのです」

 

彬子さまが月刊誌に次のような文章を寄稿し、長年にわたる家族の断絶を赤裸々に明かされたのは、’12年に父・寬仁さまが薨去されてから3年後のこと。

 

《寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母(編集部註・寬仁親王妃信子さま)は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上、きちんと母と話をすることができていない》(『文藝春秋』’15年7月号)

 

信子さまが“病気療養という理由”で、寬仁親王邸から出られたのは’04年だった。

 

「“家出”は寬仁さまとの夫婦仲の悪化のためでした。寬仁さまのアルコール依存症の治療を巡る対立や、殿下による家庭内暴力が原因だったと報じられています」(前出・皇室担当記者)

 

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出典元:

WEB女性自身

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