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(写真・神奈川新聞社)

 

「未災地」の人々へ-。1,100人以上が犠牲になった宮城県東松島市で被災した高校生5人が18~20日に神奈川県内を訪れ、同世代や大人たちに東日本大震災の体験を語った。6年前の「あの日」は小学生だったが、目の前で助けを求める人に手を差し伸べられず、避難所ではルールを守らない大人に辟易(へきえき)させられた。それでも人前に立ち、自分なりに見つめた被災の真実を伝え続けるのは、「この経験が誰かの命を救うことにつながれば」と思うからだ。

 

「日本全国、災害が起きない地域はどこにもない。被災地という言葉が使われるなら、それ以外のところは未災地だ」

 

宮城県石巻高2年の雁部(がんべ)那由多(なゆた)さん(17)は20日、大和市内で、集まった小中高校生や大学生、災害ボランティアらに自らの経験と思いを伝えた。「自分が語ることで助かる命が増えるなら、そこに懸けたい」

 

震災当時は東松島市立大曲小の5年生。津波に遭遇したのは、昇降口付近で避難を呼び掛けていたときだった。「最初はバケツの水をまくような程度だったけれど、ものの数秒で鉄砲水みたいに」。段差の上にいた雁部さんの足元にも迫ってきた。

 

自らは水飲み場の壁につかまり命をつないだが、学校に駆け込もうとしていた人が目の前で流されてしまう。「手を伸ばせば届きそうな距離だった。でも僕はそのまま見殺しにしてしまった」

 

そうした苛烈な体験を学校で口にすることは、「タブーだった」。だが中2のときに、震災直後を知る人々による発表の場に足を運んだのを機に、語り部としての一歩を踏み出す。「自分も話していいと気付かされた。話すことは苦しいことでもあるが、自分の体験を言葉に変換するので気持ちの整理もつく。伝わっているという実感、体験が何かの役に立つかもしれないという期待もある」

 

同じように語ることに意義を見いだした大曲小の同級生で石巻高2年の津田穂乃果さん(17)はこの日、食料が配られるのを待つ際に閉口した経験を明かした。「列を乱してわれ先にいくのは、おじさん、おばさんだった」。手を引いて並んでいた弟と「ああいう大人にはなりたくない」と会話したことが忘れられない。

 

自身の心も荒れ、「クラスの男子が冗談めかして震災のことを話したとき、イラッとして机を投げ付けてしまった。けんかのような状態の毎日だった」と災後の苦難を振り返った。

 

ほかの3人も「家が流されて生活の全てが変わってしまった」(石巻西高2年の相澤朱音さん)、「津波の被害はあまりなかったけれど、食べ物とか身近なものが手に入らなくなった」(同1年の三浦あゆみさん)などと語り、祖母を失った石巻西高1年の渥美静花さん(16)は「(埋葬されるときに)顔を見せてもらえなかったので、本当に亡くなったのか受け止められなかった」と、つらい場面を思い起こした。

 

雁部さんはこうも訴えた。「ひとまとめで被災地、被災者といわれるが、状況は本当に十人十色。そのことを知っておいてほしい」

 

5人は、災害ボランティアらでつくる神奈川地域貢献支援協議会の招きで来県した。18日は横浜、19日は三浦で同様の場があり、避難所運営のあり方をともに考えるなどして次への備えも探った。

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