塗装前のマーラン船の前に並ぶ越來治喜さん(右)と勇喜さん。船を造っていない時期は、治喜さんは釣り船「あかね丸」の船長として、勇喜さんはうるま市立海の文化資料館で嘱託職員として活動している=うるま市与那城平安座の越来造船 画像を見る

 

伝統の「マーラン船」を復元

うるま市勝連半島から延びる海中道路の先にある平安座島。戦前は海運業が盛んだったこの島に、4代にわたり木造船の建造技術を受け継いでいる「越来造船」がある。現在この造船所では、3代目の越來治喜さん(64)と息子で4代目の勇喜さん(37)がマーラン船やサバニなどの木造船を建造。100年以上にわたり受け継がれてきた貴重な造船技術を磨いている。

 

かつて沖縄中南部と北部を往来した交易船「マーラン船(山原船)」。18世紀初めに中国から伝来した沖縄特有の木造船で、最盛期の大正時代には100隻以上が運航していたという。そんな伝統の木造船も1960年以降は姿を消した。全国的にも木造船が少なくなる中、技術を持つ船大工も減少。現在、その技術を継承するのが越來治喜さん。そして、手元(弟子)として彼を支えるのが息子の勇喜さん。船大工稼業100年を超える越來家の3代目と4代目だ。

 

3代目の治喜さんは子どもの頃から家業を手伝ってきた。高校卒業後は、県外に進学し、帰沖後も他企業に就職するが、「母親に継いでほしいと頼まれ、本格的にこの世界に入った」。そんな治喜さんが手元として厳しい修行をする姿を見てきた息子の勇喜さん。中学生の頃から手伝いはしていたものの、「船大工になろうとは思わなかった」。転機は高校3年生の時。「(2代目の)祖父の最後の仕事を手伝うことになり、そのままの流れでこの道に入った」と振り返る。

 

材料の調達から

「材料の調達から造船まで基本2人で行っている」という治喜さん。木造船に使用する木は宮崎県日南市の飫肥杉(おびすぎ)。油の含有率が高く、腐りにくいため船に適しているという。勇喜さんは「山師と山に登り、理想の木がすぐに見つかる時もあれば4日間見つからない時もある」と話す。その後も、板の合わせ目にのこぎりを引き隙間をなくす「摺(す)り合わせ」やハンマーで叩いて板を密着させる「木殺し」など、いくつもの行程を経て船を造り上げていく。

 

2014年にはうるま市の「マーラン船等復元活用事業」で約1年かけてマーラン船を戦後初めて復元させた。現在、他の木造船や資料とともに、うるま市立海の文化資料館で一般公開され、越来造船代々の技術を現代に伝えている。復元されたマーラン船が公開されたときには平安座の人々が見守り喜んだ。治喜さんは「船を最後まで残してくれている。平安座のおかげで発展している」と地域の協力にも感謝する。

 

唯一の技術保持者

治喜さんは、2005年にうるま市無形民俗文化財(マーラン船建造技術保持者)の指定を受けた。マーラン船をはじめとする伝統的な木造船の唯一の技術保持者だ。息子の勇喜さんは父のことを「すごい人。父も祖父も僕が1日かけて行う作業を丁寧にやっても30分でできる」と尊敬の念を込める。一方、治喜さんも初代や2代目には「今でもかなわない。あの人たちは『神様』」と先代たちへの変わらぬ思いを語る。

 

勇喜さんはすでに20年に及ぶ経歴を持つ。図面作成からあらゆる木造船の規約や計算方法まで専門知識を持ち、治喜さんにとって頼れる手元だ。「若手では、彼にかなうやつはいないはず」と太鼓判を押す。

 

「この仕事は本当に大変、生みの苦しみがある。でも達成感がある」と力を込める治喜さん。勇喜さんは「『難しい』がずっと続いている」のが魅力だという。最近は、船を造る際に生じた木の端材を使った雑貨の製作・販売を開始。造船の技術を生かし新しい分野にも挑戦している。

 

親子であり、師弟である二人。「俺がいる間は、責任という意識が俺の方にある。本人が責任をもって船を造れるようになって初めて一人前になるはず」と語る治喜さん。4代目のさらなる成長に期待を込めた。

 

(坂本永通子)

 

越来造船
うるま市平安座417-5
【HP】 https://goekuzousen.ti-da.net/

 

(2019年4月18日付 週刊レキオ掲載)

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