【うるま】1959年6月30日に起きた石川・宮森小米軍ジェット機墜落事故の際、琉球新報の社会部記者として現場に駆け付け、取材に奔走した森口豁さん(81)=千葉県=が、事故から60年を迎えるにあたり当時の様子や自身の心境を語った。今年2月には、がんで余命1年と宣告された。揺れ動く沖縄をつぶさに見てきたからこそ、今の若者に伝えたいこともあるという。
森口さんは入社2年目の21歳で、同僚と那覇市の泊港にいた。その際、緊急車両が国道58号(旧軍道1号線)をサイレンを鳴らしながら北上するのが見えた。「ただごとではない」と感じ、走っていたパトカーを止め、現場まで乗せてもらった。上司からは「コザにいる記者が取材する。お前は行かなくていい」と言われたが、構わず向かった。
着いた現場は宮森小だった。付近の住宅や校舎からは黒煙が上がり、負傷した子どもたちが担架で運び出されていた。父母もたくさんおり「あいえなー」と叫び声を上げていた。中には米兵に向かって石を投げる人もいた。駆け出しの記者だった森口さんは初めて見る惨状を前にし、当初「どうしたらいいのか分からなかった」と言う。
とにかく今、目の前で起きている現実を伝えるためカメラのシャッターを切り、原稿を書いた。
米兵に「フィルムをよこせ」と言われたが、絶対に渡さなかった。事故を語り継ぐ石川・宮森630会の資料集には、そのときの写真が随所で使われている。当時の取材について「ずっと記憶に残り続けている。記者人生の原点だ」と回顧する。
事故から60年を迎えた今、若い世代に伝えておきたいことがあるといい、森口さんはこう口にした。「目の前に広がる沖縄の姿が異常だということにどうか気付いてほしい。そのためにも、この島が歩んできた歴史をきちんと勉強してほしい」。しっかりと前を見据えながら、力強くそう語った。
(砂川博範)