「最高のチームでメダルを取れてよかった。でも、まだまだ。表彰台に立っても、いちばん上に上りたいなと思った。また、4年後、(金メダルを)目指していきたい」
そう、団体銅メダル獲得後に“その先”を語った葛西紀明選手(41)と、左膝の激痛を競技終了後に告白した伊東大貴選手(28)は、ともに北海道下川町出身。「年に3回はマイナス30度」という厳寒の下川町は人口3,500人あまりだが、輩出した五輪選手は6人。獲得メダルは金1、銀3、銅2の計6個で、すべてジャンプ種目だ。
葛西&大貴選手が一切弱音を吐かず、不屈の精神で今回勝利をつかむことができたのはある恩人のおかげだと「下川ジャンプ少年団」元コーチの伊藤敏光さん(51)は話す。
「下川町、ジャンプ日本一の最大の功労者は伊藤恒さんです。少年団結成は’77年。恒さんは現役のジャンパーでしたが、子供らの練習の面倒もみていました。しかし’80年に交通事故に遭った。その後遺症で飛べなくなったのに、恒さんは毎日半日かけてジャンプ台の整備をしてくれていました」
葛西&大貴選手の才能にいち早く気づいていたのも恒さんだった。小3の葛西選手の滑りを見てジャンプ競技を勧めている。
「あるとき恒さんが『面白い子がいるぞ』と言いだした。見ると本当にスゴイ。それが少年時代の葛西だったんです」(前出・伊藤敏光さん)
大貴選手のスカウトも恒さんだ。大貴選手の父・和博さん(51)は、当時のことを次のように振り返る。
「アルペンスキーをしていた小1の大貴を見て『いいバネしているからジャンプやらせ』と恒さん。それでかけもちをするんですが、すぐにジャンプばかりに夢中になって」
恒さんの息子で下川町教育委員会スキー指導専門職員の伊藤克彦さん(47)が語る。
「父の指導は厳しいことで知られていました。岡部孝信選手(長野五輪・団体金)などは、『自分の父親にも殴られたことないのに、恒さんには何度も殴られた』って(笑)」
恒さんは競技以前に人として大切なこと、あいさつや礼儀についても口を酸っぱくして教え込んだ。下川の小さなジャンパーたちはみな、記者に「お疲れさまです!」と元気よくあいさつする。それは、下川ジャンプ少年団の伝統だと克彦さんは言う。また、恒さんにはこんな口癖もあった。
「大きな大会でいい成績を挙げると調子に乗る子も出てくる。そんなとき父は『天狗になるな』と説教したものです。葛西選手の、20代よりも進化した肉体を見てください。あれは、ずっと同じ練習では絶対に無理。よりストイックに自分を追い込んでいるからこそ、レジェンドと尊敬される。その意味では父の教えを受け継いでくれている」(前出・伊藤克彦さん)
恒さんは晩年肺がんを患い、’01年8月、59歳でこの世を去った。だが、その遺志は脈々と受け継がれている。葛西選手をはじめこれだけの素晴らしい結果を出しても、下川町出身のジャンパーたちの耳には「お前たち、天狗になるな!」という恒さんの声が聞こえているのだーー。