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(写真・AFLO)

3月で震災から5年、被災者となった羽生結弦(21)は特別な思いで臨んでいるという。

 

5年前の3月11日、羽生は地元のアイスリンク仙台で練習中だった。大きな揺れに衝撃を受けたものの、九死に一生を得る。さらにライフラインが閉ざされた仙台で自宅に戻れず、一家は避難所生活を余儀なくされたのだった。

 

彼の精神的な動揺は激しく、とてもスケートに集中できる状態ではなかった。

 

「確かに、結弦くんが震災のダメージから立ち直るのは大変なことでした」と明かすのは、小2から中3まで羽生を仙台で指導していた都築章一郎さんだ。

 

「彼は3年前に練習拠点をカナダに移しました。その後もメールのやり取りはしていますが、今でも『本当は仙台を離れたくなかった』と漏らしています。結弦くんの心には『自分が被災者の代表である』ことの誇りというか、プライドがある。常に被災者と寄り添っていたいという思いが強いんです。だからこそ現在も自宅は仙台市内のまま。以前の自宅からは引っ越しましたが、つつましく謙虚なご一家らしい普通のマンションです」

 

都築さんは現在指導しているジュニアの選手が全日本選手権に出場するため、昨年12月に開催地の札幌を訪れている。そこで、羽生と久々の再会を果たしたという。

 

「彼は『お久しぶりです』と挨拶してくれて、私の指導するジュニアの子にも『頑張ってね!』と激励の言葉をかけてくれました。会場には、ご両親も来ていましたよ。ご両親は私を見つけると駆け寄ってくださって『ご無沙汰しています。その節は、大変お世話になりました。お元気ですか?』と話してくれました。息子がどんなに活躍するようになってもご両親ともに決して奢ることなく、謙虚なまま。昔と変わりませんでしたね」

 

決して変わることのない被災地への思い。それがあったからこそ、強い精神力で高みへと成長できたのだ。

 

「彼は『震災のときはアイスリンクも使えなくなって、本当にスケートを辞めようと考えた。そんな折れそうな心を後ろから優しく押してくれたのが仙台の人たちだった。みんなの声に後押しされたからこそ、今の自分がある』と語っていました。そして、温かい地元の人たちに『一生かけて恩返ししていきたい』とも語っていました」(前出・フィギュア関係者)

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