MLBお墨付きの「応援団」地元奥州から大谷翔平選手へエールを!
画像を見る 「応援団」はユニフォームで気合十分(撮影:田山達之)

 

■「息子たちが野球仲間。ときには翔平君を私の車で送って帰ることも」

 

「うちが応援団のサポーター第1号になり、私が顧問になったというのは、地域の信金として大谷選手を応援していこうとの思いもありますが、実は私の息子2人が、翔平君とはリトルリーグから高校までの野球仲間なんです」

 

水沢信用金庫常務理事の佐々木健一さん(60)は、大谷選手のカレンダーやサインの飾られた応接室で話し始めた。

 

「大谷選手の才能は、子供のころからずば抜けていました。ただ、小中学生のころは、体格がヒョロヒョロとしていたのは本当です。とはいえ、中学生でも投げれば140キロを出してましたから。食事の面などで、お母さんがずいぶん気を使われたのでは」

 

193cm・95kgの、日本人離れした現在の大谷選手の体格からは想像できないが、子供のころは“小食”だったというのは、大谷伝説の一つとなっている。

 

花巻東高校の佐々木洋監督の指導で「どんぶり10杯」を食べては吐きを繰り返したという報道や、母親の加代子さんが、なんとか楽しく食べられる雰囲気を作ろうと、家族で食卓を囲むホットプレートでの料理を心がけたという逸話を本誌でも紹介している。

 

「中学時代の『一関シニア』では、火曜と木曜が午後6時から9時まで練習でした。グラウンドへの送り迎えを私たちもやりました。うちの息子たちが大谷家の車に乗せてもらうこともあれば、私の車に翔平君が乗ることも。そのときの会話ですか? 聞いてません。というのも、乗ったと思ったら、もう3人は、ぐったり練習疲れで眠ってましたから。話しかけると、面倒くさそうにされましたし(笑)」

 

大谷選手は、幼少のころから、元国体選手だった加代子さんの影響でバドミントンに親しみ、幼稚園で水泳を、小2のときに水沢リトルリーグで野球を始めている。

 

水沢リトルでは、社会人野球での選手経験もある父親の徹さんが監督をしていたことも。両親とも顔なじみという佐々木さんは、

 

「子供同士ですから、監督の息子が試合に出るのをおもしろくなく思う子もいました。でも、翔平君は猛練習と天分で実績を積み、誰にも文句を言わせなかった。雨が降ると体育館でサッカーやバスケをやる日もありましたが、翔平君は普通にうまかったですから。どのスポーツに進んでも、一流選手になっていたでしょう。お母さんは明るいスポーツウーマン、お父さんは誠実な指導者。子供の前では夫婦げんかをしなかった? それは本当かなぁ(笑)。ただ、本気のけんかは絶対にないでしょうね。端で見ていても、それくらい仲よし夫婦、仲よしファミリーでした」

 

再び、佐々木さんは語る。

 

「あれだけご子息が世界的に活躍しても、自慢も一切なし。ご両親も、翔平君も、こちらの言葉で言えば、“おだった”ところのない人柄。浮ついてない、調子に乗らないという意味です。花巻東の練習は、やっぱり厳しいんです。寮生活でも管理され、卒業すると、そこではじける人も出てくるもの。それを、翔平君のように、学生時代の佐々木監督の教えを大切に守って自己管理や読書を続けている。その姿勢が、今の大活躍の根っこを作っているのだと思います」

 

ふるさと応援団の一員として、水沢信用金庫でも大谷選手の背番号17にちなんで、毎月17日には職員が赤いエンゼルスのTシャツを着て業務をしている。この「大谷デー」も、市役所からスタートして、今や全市に広がっている。

 

最後に、大谷選手の素顔について語ってくれた。

 

「性格はマイペースで、人のことは気にしない、のんびり屋でしょうね。わが家に遊びに来ていたときも、ちゃめっ気のある少年でした。いまだに1学年上のうちの次男とはLINEでつながっているようですが、その内容を息子が私に話すことはありません。だから、翔平君も安心して故郷の仲間とやり取りしているのでしょう。それを思うと、私、ちょっとしゃべりすぎだな(笑)。まあ、すべて応援団としてのエールです」

 

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