■持って生まれた自己陶酔力とスター性、そして素直さで、頭角を現していった
「音楽にノッてくると、頭を上下に振りまくって滑っていましたね。ちょうど、X JAPANのYOSHIKIさんがドラムをたたくときのように。『そんなに振ると頭が痛くなるよ、脳みそがグチャグチャになるからやめなさい』と、何度言っても聞かない。そのうち私も“もういいや”と思って(笑)。『じゃあ、振りたいだけ振りなさい』と言ったら、あとは自由にやってました。自分の世界に入り込んでいるから聞く耳を持たない感じで、『僕は強さをこう表現するんだ』ってアピールしているようで」
フィギュアを始めた4歳から小2まで羽生を指導してきたスケートコーチの山田真実さん(48)は、 「なんでもオーバーな感じ。怒られたときは、ことさらうつむいてシュンとしたしぐさをする。足を痛めたときには、『痛いんだ、痛いんだ』と。実はたいしたことないのはわかっていて、練習をサボりたくて言ってるんだろうなと(笑)。
でも、自己陶酔というか、本当に大けがをした悲劇のヒーローみたいな顔して。いま思えば“かわいいな”という感じですが。日本人にはいないタイプで、今度の北京オリンピックでも、その表現力は生かされていましたね」
この自己陶酔力は、リンクの外でも発揮された。
「インタビューを受けたときも、少女漫画の王子様が吐くようなクサいセリフを言う。私なんか“なんで、そんな恥ずかしいことを言えるの”と思うんですが(笑)、本人は演出じゃなく、あくまで地で言ってたんですよね。
でも、そんなスター性は、この競技には大事だし、彼は失敗しようが何をしようが華があるんです」
音楽を体全体で表現する男の子がいる。そんな評判がコーチ陣の間を駆けめぐったのも、このころから。元日本スケート連盟フィギュアスケート強化部長の城田憲子さん(75)は、
「普通、小さい子はジャンプを跳ぶことばかりを考えて、特に男の子は、手の先だったり、頭の角度だったりをうまく音楽に合わせるのは難しいんですが、羽生選手はとてもよくできる子でしたね」
共に都築さんのもとで練習し、“ユヅナル”コンビとも呼ばれていた元五輪代表で女優の高橋成美さん(30)も、
「ユヅが小2、私が小5のころから一緒でした。素顔はやんちゃな男の子なんですが、当時から、人とは違う何かを感じていました。スケートに関していえば、何をしてもサマになる。なぜか、人の目を引きつけるんです。
もう一つの才能は、いつでもスケートにひたむきなユヅを、誰もが応援し、サポートしたいと思わせるところ。また彼も素直に受け入れるから、その相互作用でこれほどの成長を遂げたのでは」
94年12月7日、宮城県仙台市に生まれた羽生結弦。4歳のときに4つ年上の姉に憧れフィギュアスケートを始めた。ぜんそくを克服するためだったともいわれるが、大勢の視線と声援を浴びながら演技し、人々に感動してもらえるフィギュアをすぐに大好きになった。やがて都築さんの指導を受けるようになると、小4で全日本ノービス(年少部門)で優勝するなど「マッシュルームカットの天才少年」として頭角を現していく。
この当時から、都築さんの教えは徹底していた。高橋さんが語る。
「都築先生は、常に上を目指せということを言いました。ジャンプに関しても、『ダブルの次はトリプル』『トリプルの次は4回転』、さらに『4回転の次は5回転』というふうに」
山田さんも言う。
「都築先生が『お前が王者になるんだ』と言っても、ほかの子は、どこか冷めてて“そんなの、なれるわけないじゃない”と思う。
でも、羽生君は、“そうなんだ、自分は王者になれるんだ”と素直に信じた。互いの波長が合ったんですね」
やがて都築さんから聞かされた「アクセルは王様のジャンプ」という言葉に、羽生は胸に誓う。
「初めて4回転半を降りた人間になりたい」
その後も、練習の場だった仙台市内のスケートリンクの経営難による閉鎖や、高1のときの東日本大震災などいくつもの逆境を乗り越えていき、19歳で初出場したソチ五輪で頂点に立つと、4年後には平昌五輪でも優勝し、66年ぶりとなるフィギュアでの五輪2連覇を成し遂げた。