父は中学校長、母は専業主婦、姉は羽生のホームリンクだったスケート場の職員をしていた。幼いころは家賃5万円の県営住宅に暮らし、高価なフィギュアの靴やリンク使用代などのために、母親がデパートにパートに出ていたことも。
羽生のキャリアアップに連れ、母は練習に付き添い、父が運転して送り迎えするなど、まさしく家族全員でサポートした。
「おおらかで、何事も『アハハハハッ』と笑い飛ばすようなお母さん。羽生君のオーバーな表現も、『いいんじゃない、それがあなたの個性だよ』という感じ。そうやって肯定する教育法だったから、素直にお客さんやファンの応援も受け止めて、自己陶酔もできるし、それを楽しませることで返してあげようと思える。
お父さんは、むしろリンクの外で、スケートよりキャッチボールをしていた姿が印象に残っています。野球選手にも憧れていたようですが、『でも本人がスケートを選んだのだから』と聞いたこともありました」(山田さん)
息子の選んだ道だからと全力で応援する家族の思いに応えるように、「わが道」を邁進していく羽生。母が練習に付き添う生活は、12年に彼がカナダを本拠地に選んだときも変わらなかった。家族は、仙台の父と娘、カナダの母と息子という二重生活を選択し、さらに次のステージを目指したのだ。
五輪出場に関していえば、羽生は、小学生のころからの目標だった2連覇を達成して、競技者としては大きな区切りをつけたはずだった。
しかし、やがて彼は北京オリンピック出場を口にする。幼いころからの夢である4Aにチャレンジする場として、この大会に照準を絞ったのだった。
その北京オリンピックを前にして、世界中を襲ったコロナ禍により、カナダでの生活に終止符を打つ決断をするが、ぜんそくの持病もある羽生とその家族にとっては、自然な選択だったかもしれない。
一方で、競技者として、カナダから帰国して以降コーチ不在で練習をしていた羽生の環境を案ずる声は大きかったが、野口さんは、
「4回転アクセルに関しては、オンラインでカナダと相談しながら進めていたようです。ブライアン・オーサーコーチも『ユヅルがすべて決めて、僕はそれをサポートするんだ』と話していました」
佐野さんも、
「経験の少ない選手ならコーチ不在は不安なことでしょうが、羽生選手クラスになると、逆に自分とじっくり向き合う時間を持てたというのは、それほどデメリットもなかったのでは」
ここでも羽生は、コロナ禍という逆境を、自ら追い風にしてみせたのである。
故郷の仙台において、完全非公開で孤独な練習を続ける彼のそばには、三度の食事を気遣い、深夜の練習のときも送り迎えをしてくれる家族の姿が再びあったーー。