■経営難でリンクが閉鎖 荒川静香に救われて…
羽生は過去にホームリンクを失って苦しんだこともある。
’11年の東日本大震災によってアイスリンク仙台が営業停止になり各地を転々として練習を続けたことはよく知られるが、それ以前の小学生のころにもホームリンクが経営難のために閉鎖されたのだ。’04年末のことだった。
そのときのことを、羽生は自叙伝『蒼い炎』にこう綴っている。
《僕らは急に練習場所がなくなってしまって、スケートを続けるには今までよりも遠いところにある他のリンクに通わなくちゃいけなくなりました》《同じクラブの選手には、それをきっかけにやめちゃった子もいたんです》
リンクが遠くなったことで練習時間が減り、この時期の羽生は試合での成績も伸び悩んでいた。
閉鎖したリンクでコーチとして羽生を指導していた都築章一郎さん(84)は、こう振り返る。
「リンクの閉鎖で、私は東京の自宅に戻ることになりました。羽生は別のリンクで練習させてもらえるように私が話をして。週末にはご両親と一緒に、神奈川の私が教えているリンクにレッスンを受けに来ていました。苦しんだ時期だったと思います」
その後、’07年に現在のアイスリンク仙台として、元々のホームリンクが営業再開。再開の背景には前年のトリノ五輪の金メダリストである荒川静香の存在があった。
「荒川さんも同じリンクの出身。彼女が呼びかけたことで、県や市が動いたのです」(地元関係者)
この一連の出来事は羽生の心に大きな印象を残したようだ。4年前の平昌五輪の凱旋パレードの際、次のように話している。
「僕が仙台でスケートを続けられたのは、荒川さんがトリノで優勝して、リンクへの補助金や支援をしてくれたから。僕がそういう存在になれたらいい」
実際に羽生はこれまでもアイスリンク仙台に多額の寄付をしてきており、総額は3千万円以上。
前出の都築さんは、仙台だけでなく日本各地でアイスリンクが十分に整っていない状況を憂い、羽生にさらなる期待を寄せる。
「本当に日本にはアイスリンクが足りていないんです。こんな環境でよく羽生のようなトップ選手が育ったと思いませんか? 仙台の市議がリンクを造ろうと言っていますが、実現してほしいです。それも羽生という存在があったから出てきた話でしょう。後進のために影響を与えていくのが今後の羽生の仕事だとも思います」
リンク建設への壁の一つとなるのが金銭面だが、佐藤議員は「ふるさと納税やクラウドファンディングなどで、世界中から20億円、30億円ほどの建設資金は集められるのではないか」と考えている。
確かに、世界的に注目を浴びる羽生の地元リンクとなれば、多くの寄付が集まりそうだ。すでにそんな“ゆづリンク”計画に「協力したい」という声が佐藤議員のもとには多数届いているという。
今後は羽生本人にアプローチすることも考えてはいるというが、
「ただ、羽生さんにはプレッシャーはかけないやり方で進めたいと考えています。そうして新しいリンクができたときに、結果として、そこで羽生さんが後進の指導をしてくれて、彼に続くようなスケーターが輩出されていくようになるのがいちばんかなと思います。もちろんリンクに意見をいただけるならぜひ取り入れたいですね」
21日、成田空港に到着した羽生は、母親らしき女性とハイヤーに乗り込んでいった。
「帰国後の自主隔離期間はホテルで過ごす選手もいますが、羽生選手は仙台で自宅待機をすることにしたようです」(スポーツ紙記者)
故郷が羽生にとっていちばん心身を休められる場所なのだろう。佐藤議員も羽生の仙台への思いを感じている。こう話してくれた。
「震災以降、市にも県にも羽生さんからたくさんのご寄付をいただいているんです。そうやって仙台を愛してくれている羽生さんの気持ちに応えたいと思っています」