■羽生が言った「あと3年半くらい時間をください」
都築さんが指導を始めた初期から、幼い羽生に熱心に伝えていた言葉がある。
「アクセルは王様のジャンプ」
当時の羽生が跳んでいたのはまだシングルアクセル(1回転半)だったというが、羽生の4回転アクセルへの挑戦はこの言葉があってこそなのだ。
「昔からこの世界では、そんな言葉が使われてきたんです。アクセルというのは唯一前向きに踏み切るジャンプで、特別なんです」
そう話す都築さんの脳裏には、ダブルアクセル(2回転半)をうまく跳べなかったころの羽生の姿が焼き付いている。そのころが、まさに9歳。
「周囲の同世代がダブルアクセルを跳べているのに、羽生はなかなか跳べない時期がありました。当時、あまりジャンプがうまいほうではなかったんです。彼としては悔しかったんじゃないでしょうか。必死にダブルアクセルを覚えようとしていましたよ」
“アクセルへの執念”が生まれた瞬間だったのかもしれない。羽生はこの“9歳”で、全日本ノービスで初めて優勝し、才能を本格的に花開かせ始めていた。
「基礎をかなり細かく指導しました。私は羽生に世界にはばたいて挑戦する選手になってほしいと思っていました。基礎がしっかりすれば、2回転半の次は3回転半、そしていずれは4回転半につながる、と考えていましたね」
都築さんは当時から羽生に「オリンピックに行こうね」と声をかけていた。その言葉どおり、羽生はオリンピックへ。しかも金メダルを取る。2回も。
そして、次に羽生が目指したのが4回転アクセル。都築さんは、その挑戦もずっと見守ってきた。
’18年の平昌五輪の後には4回転アクセルの進捗について、羽生に直接聞いたことがあった。
「私がコーチをしている横浜のリンクにエキシビションで来てくれたことがあったんです。そのとき、私は羽生に『4回転半はどうだ?』と尋ねました。そしたら『ああ都築先生、あと3年半ぐらい時間をくださいよ、ちょっと待ってください』という言葉が返ってきましたね。
あと3年半というのは、要するに今回の北京五輪までに4回転アクセルを完成させる夢を持っていたということですよね。彼の頭の中にそういう未来への設計図があって、そこに向けてトレーニングしてきたのでしょう」
そして北京五輪での4回転アクセル挑戦。都築さんは顔をほころばせる。
「転びこそしましたけれど、ISUに認定された。本当に素晴らしかったですね。よくやったと思います」