■4回転アクセル成功を阻んだ右足首のケガ
そもそも羽生が平昌五輪後も現役を続けてきたのは、4回転アクセルを成功させるためだった。
「五輪で2連覇し、’20年には男子初のスーパースラムも達成。『取るものは取った』という意識は本人の中にずっとあったようです。あとは、幼いころから思い描いていた4回転アクセルの成功だけ、と……」(前出・スポーツ紙記者)
北京五輪では転倒こそしたものの、国際スケート連盟(ISU)に4回転アクセルだと認定された。
このまま練習を続ければ成功するかもしれない。けれどーー。
痛む右足を見つめながら羽生は悩んだに違いない。
羽生が8歳のころに出会い、ソチ五輪と平昌五輪に同行した元専属トレーナーの菊地晃さんは話す。
「平昌五輪のシーズンに損傷した右足の靱帯はかなりの重症でした。それでも治療に専念し、ご存じのとおり平昌では五輪2連覇という偉業を達成。しかし正直、’18年のあの時点で引退してもおかしくないほど足の状態はボロボロでした」
フィギュアスケート評論家の佐野稔さんは、今回の決断の大きな要因を、やはり右足のケガと見る。
「右足首の状態、そこに尽きると思います。結局、競技を続けていくということは、勝ちを目指すということになります。でも4回転アクセルを跳びながらさらに勝つ練習をするということは、右足首がしっかり治っていないとできることではありません。プロになっても右足首は使うわけですが、競技とは違って、そこまで酷使しなくて済むという部分はあると思います」
フィギュアスケートの歴史に“4回転アクセルを跳んだ男”として名を刻む。公式の記録として認められるためには、ISU公認の大会で成功させる必要がある。
アイスショーではそれは叶わないーー。
懊悩のただ中にいたであろう3月のこの時期。仙台は、東日本大震災から11年を迎えていた。
また、3月16日の夜には宮城県と福島県で最大震度6強の地震もあった。羽生が小学2年生のころからコーチを務めた都築章一郎さんはこのとき心配になって、羽生にメールを送ったという。
「『物が落ちてきたりしましたが、無事でした』と返信がありました」
震災の記憶が呼び起こされる出来事。そして、それは羽生が故郷を励まし続けた、また、故郷に応援され続けた復興の11年を思い起こすことでもある。
3月10日には地元のミヤギテレビの情報番組『OH!バンデス』に3.11を迎えるにあたってのメッセージも寄せている。
北京五輪での挑戦に触れた、次のような内容だ。
「僕は挑戦することをやめず前へ進み続けましたが、成功するところまでいくことはできませんでした」
「悔しい、苦しい気持ちもありますが、そんな姿からでも、皆さんのなかで何か意味のあるものになれているのであれば、本当に幸せ」
「前へ進み続けることは大変なことであり、報われないこともある。それは震災のことでも同じことがある」
報われたわけではない。それでも自分の姿が誰かに何かを感じさせるものであったなら、それは素晴らしいことなのではーー。
あるフィギュア関係者は言う。
「北京五輪では、4回転アクセルに挑む羽生選手の姿に感動したという人は多く、世の羽生フィーバーはむしろ高まるばかりでした。4回転アクセルを成功できなくて“報われなかった”と思っていたなかでの、そういった世間の反応に羽生選手は救われたといいます。
自分にとって大切なのは、記録を残すことよりも、4回転半に挑戦し続ける姿を人々に見せること。そのためにはアイスショーで挑戦するのでも十分だと考えるようになったのではないでしょうか」