住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、金メダルに熱狂したオリンピックの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう――。
バルセロナオリンピック(’92年)で岩崎恭子が金メダルを獲ったとき、時差の関係で日本は深夜。
「母が『14歳の女の子だよ』と起こしてくれたのですが、私は半分夢の中で……。朝にはすごいニュースになっていて“本当に私と同学年の選手が世界で1番になったんだ”と驚き、憧れました」
こう振り返るのは、元競泳選手の田中雅美さん(43)。このときは彼女とともに次のアトランタオリンピックに出場するなど、夢にも思っていなかった。
「父も母も体育の教師という、スポーツ一家。水泳を始めたきっかけは、陸上でアキレス腱を断裂した母が通っていた、水泳のリハビリに一緒についていったことです」
地元・北海道のスイミング教室に通いはじめ、小2で選手コースに進んでから競技人生が始まった。
「小学校時代から、運動では人一倍、負けず嫌い。運動会でもマラソン大会でも、負けると布団をかぶって泣いているような女の子でした」
スポーツ漫画も好きだった。
「学校ではやっていた『YAWARA!』(’86~’93年・小学館)や『SLAM DUNK』(’90~’96年・集英社)を読んでいました。少女漫画も好きで、『りぼん』派の私のお気に入りは『姫ちゃんのリボン』(’90年~’94年・集英社)。毎日、水泳の練習を終えて帰宅するのは夜8時。なんとか間に合う『101回目のプロポーズ』(’91年・フジテレビ系)などの“月9”を楽しみにしていました。金曜の夜10時からやっていた冬彦さんが出てくる『ずっとあなたが好きだった』(’92年・TBS系)も好きだったのですが、母がいい顔をしなくて(笑)」
一方、水泳のほうは、岩崎と違い、まだオリンピックを狙える選手ではなかった。
「大会に出るたびに記録を更新できるのはうれしかったのですが、オリンピック選手になろうなんていう目標はまだまだ」
だからこそ、バルセロナオリンピック直後の全国大会で初めて見た岩崎は、別世界の人だった。
「偶然にも恭子ちゃんの隣のコースで泳いだんです。でも、スター選手なので声をかけることも、サインをもらうこともできず……。そんな人と同じようにスタートを切って、競っていることが不思議な感覚でした」
このときのレースは、岩崎と比べるまでもなく、決勝に残ることもできなかったが、“憧れの存在に少しでも近づけるように記録を伸ばしたい”と、あらたなモチベーションになった。
「水泳人生にとって大きな転機は、中3の全国大会で、予選1位で決勝に進めたこと。決勝では4位でしたが、上位に入ることがリアルな目標になりました」
岩崎にはじめて声をかけたのも、このころだという。
「全国大会の更衣室で声をかけて、その後の大会で写真を撮ってもらいました。現像してプリントした写真を恭子ちゃんの実家に送って、文通がスタート。《また一緒に会えるように、水泳を頑張りたい》というようなことを書いた記憶があります。恭子ちゃんからの返事はいまでも実家に保管しています」
田中さんは全国クラスの選手となり、大会や遠征で東京に行く機会が増えていった。
「東京に行くときは、原宿での買い物が楽しみ。当時はタレントショップ全盛期で、ビートたけしさんや山田邦子さんのキャラクターが入ったポーチやシャープペンシルを買ったりしていました」