【パリ五輪】弱点がない石川祐希、逆境も楽しむ髙橋藍…会長・川合俊一が見たバレーボール男子最強伝説
画像を見る 2024年7月8日、協会主催パリ五輪壮行会にて(写真提供:日本バレーボール協会)

 

■一緒に焼き肉を食べながらお金の話をしたことで、選手の意識が変わった

 

川合が日本バレーボール協会会長に就任したのは、’22年3月。この2年間で行ってきた改革は、協会の行動規範の策定に始まり、メディア露出の拡大やスポンサー企業の獲得など多岐にわたる。協会公式のSNSを積極的に利用し、選手の密着動画やインタビューなどを公開。大会の舞台裏などが見られると評判で、フォロワーも急増中だ。さらに、人気バレーボール漫画『ハイキュー!!』とのコラボなど、PR戦略にも一役買っている。

 

そうした取り組みによってバレーボール人気に再燃の兆しが見えると、選手たちのメディアでの露出を増やすことに力を注いだ。

 

「僕が会長になってから、男女の両監督に言ったんです。広報が取材を入れたらOKしてください、と。それまでは、取材を受けるかどうかは監督が決めていましたが、取材のことは広報に一任してほしいとお願いしました」

 

また、これまで培った人脈を使って、新聞や出版社、テレビ局などの知り合いに「一度でいいから取り上げて」と頼んで回った。

 

「すると、どこも一度は取材してくれるんですよ。で、よければ2度、3度とやってくれるし、実力があれば一気に来る。昨年男子がネーションズリーグで銅メダルを取ってからは、爆発的に増えました」

 

さらに、選手たちに対しても、メディアに出ることの意味や、取材を受けるときの心構えなどを自ら説明してきた。

 

「選手の待遇を改善したり、強化費を確保するためには、お客様に試合会場に足を運んでもらわなければならないし、テレビ中継の視聴率を上げなければならない。そのためには、どんどんメディアに出て、世間に顔を知ってもらうことがとても重要なんです。

 

練習や試合会場で会ったときにもそういう話はちょくちょくします。昨年のネーションズリーグ前、男子と女子の選手たちとそれぞれ焼き肉を食べに行ったとき、『応援してくれる企業が増えたおかげで合宿が増えたんだよ』『移動の飛行機やバスもよくなったでしょう』という話をしました。お金の話というのはなかなかしづらいものですが、そういう事情を知ることによって、選手たちの意識が変わったと思います」

 

川合のSNSには、選手と一緒に撮った写真がたびたび公開される。若い選手たちと積極的に交流し、風通しのよい組織を作ってきたことも、日本のバレーボールが強くなった要因の一つなのだろう。

 

■大学選抜の補欠から運よく日本代表に。ラッキーボーイの才能は学生時代から

 

選手自身の主体性を大切にする、そんな川合の気質は、高校時代に身に付けたものだ。新潟で生まれた川合は、8歳から家族とともに東京都大田区に移住。のんびり屋の少年は、とにかく動くことが嫌いで、男子と野球をやるよりも、女子とゴム跳びやおはじきをやったり、オルガンを弾いたりするほうが好きだった。

 

しかし、地元の中学に進むと、父親の勧めでバレー部に入部。高校は、スポーツの名門校、明大中野高校に進学した。

 

「中学1年から高校3年までの6年間、帰宅後は、毎日必ず2時間、食事をしながらとミーティングですよ。練習内容や自分はどう取り組んだかを報告して、できていないと延々と説教された。寝ている弟を横目に見ながら、『次男は気楽でいいなあ』と(笑)。休みの日には多摩川の土手に行ってサーブの練習をしたりね。結構、厳しい父親でした」

 

転機は、高校3年生のとき。監督が月に一度しか練習に顔を出さないバレー部は、3年生が自分の頭で考え、自主的に行動するようになっていった。そのおかげで、プレーの面では急成長。卒業後は日本体育大学に進学。3年のときに初めて日本代表入りをはたした。

 

実は、川合の強運ぶりは、このころからを見せていた。

 

「当時、大学選抜が日本代表と試合をやって、そこで活躍した大学生は日本代表に入れるという話があったんです。僕は、それまでは大学選抜の補欠で、日本代表になれるなんて思いもしなかった。ところが、僕と同じポジションの選手が、試合中に肩を脱臼しちゃって、それで急きょ、出場することに。しかも、そのときの大学選抜が強くて、日本代表に勝っちゃったものだから、僕も含めた6人はそのまま日本代表に。本当、ラッキーでした(笑)」

 

当時20歳。ロサンゼルス五輪の出場権がかかったアジア選手権に向けた、アメリカ遠征に参加した。

 

「ほかの選手がみんな時差ボケに悩まされるなか、僕一人だけが絶好調(笑)。というのも、日体大のバレー部は、先輩の許しがないと寝られないというルールがあったので、ふだんから睡眠時間は2~3時間。だから、寝なくても全然つらくないし、練習中の声もでかい。『あいつ、時差ボケがない、すげえ!』となって、最終メンバーの12人に滑り込めたんですよ」

 

ラッキーボーイの快進撃は止まらなかった。アジア選手権決勝の中国戦に途中出場した川合は、一人時間差攻撃などのさまざまな攻撃パターンを見せ、五輪切符の獲得に貢献。

 

「2セット先取され、もう後がないというところで投入されて。それまでの試合でやっていなかった“流れ攻撃”をやったら、次々と決まって日本チームのムードが一変。3、4、5セットを取る大逆転につながりました。

 

流れ攻撃というのは、体を流すように斜めに跳んで打つ攻撃で、漫画の『ハイキュー!!』にも似たような攻撃があるんですよ。練習では、変な攻撃するなと怒っていたコーチも、流れ攻撃が決まると、『どんどんいけ!』って。『やるなと言って怒りましたよね?』って感じですよ(笑)」

 

そして、ロサンゼルスオリンピックで五輪初出場をはたした川合。

 

大学卒業後は、実業団「富士フイルム」に入社し、日本リーグで5連覇を達成。第一次バレーボールブームの火付け役となった。『平凡』や『明星』など、雑誌にも取材され女性ファンが急増。会社の体育館や実家のトンカツ店には、大勢のファンが押しかけたが、当の本人は、「どこか人ごとだった」と意外にあっさり。

 

アイドル的な人気を誇った川合は、ファッションも注目された。

 

「日本代表のスーツがカッコ悪くて、『移動のとき私服でいいですか?』ってコーチに言ったら、最初はすごく怒られたのだけど、しつこくお願いしたら、僕だけ、Tシャツとジーパンで移動してもいいと許可が出たんです。ただし、試合で調子が悪かったらただじゃおかないと言われて。人生でベスト3に入るくらい頑張って活躍したら、その後、日本代表の移動の服装は自由になりました(笑)」

 

時代は、日本が好景気に沸いたバブル期。私生活では、学生時代から通い慣れた六本木を拠点に交友関係を広げた。

 

「大学4年ごろから芸能人の友達は多かったですね。少年隊東山紀之や、陣内孝則さん、真田広之さんと仲がよかったなあ。そのころは、六本木で飲んでいても、お金がいらなかったんです。会計のとき、『おいくら?』って言うと、『若いが、何言ってるんだ!』と大人がおごってくれた。とにかく、お金はどんどん入ってくるから、それほど重要じゃなかった時代。

 

毎日が楽しいのがいちばんで、2番目は人が持っていないものを持っていること。そして3番目は、深夜タクシーを呼べることがステータスでした。当時の六本木は、夜中になるとまったく空車がなくて、飲み代30万円払うよりも、タクシーを呼べる人のほうがすげえ! って感じでしたね(笑)」

 

夜の街で培ったコミュニケーション能力は、選手引退後の人生でも、おおいに役立つこととなった。

 

【後編|パリ五輪】バレーボール協会会長・川合俊一の勝利予想は…「ラッキーボーイの甲斐優斗がメダルを左右する」へ続く

 

(取材・文:服部広子)

【関連画像】

関連カテゴリー: