■両親も支えてくれた育児をしながらの競技生活
’17年、理穂さんは同じデフ卓球選手と結婚し、引退。そして’19年1月15日、長女・結莉ちゃんを出産して母となった。
「帝王切開での出産で、補聴器は禁止だったのですが、私は『産声を聴きたい!』とお願いして、特別に許可してもらいました。無事に生まれて大きな泣き声を聴けたのがうれしかったんです」
喜びも束の間、仕事に育児が加わる「重みに気づいた」という。当時在籍していた会社は、選手としての待遇の考慮はなかった。
「フルタイム勤務のうえ、用具費、遠征費の補助はなく、長期遠征は有給休暇を使っていました」
有休がなくなれば「欠勤」扱いで、その日は無給。
「月給が1桁になった月もありました」
育休を取得して子育てに臨んだが、聴覚障害がある分、やはり時間も手間もかかった。
母・千里さん(63)によれば、
「理穂は出産後、すぐウチ(実家)に来ました。夜中に赤ちゃんが泣いても、理穂は聞こえずに起きないのが心配でした。そんなときは私が起きて、理穂を起こしに行ったんです」
理穂さんは、出産直後は実家に5カ月ほどいたが、その後は親の手を借りずに育児をすることに決めたという。
「私がなにか手伝おうとすると、『ここにいたら息が詰まる。監視されているみたい』と理穂が言うんです。私は『産後うつ』なんじゃないかと気がかりでした」
実家を飛び出してみると「困難が身に迫った」と理穂さん。その困難とは「娘がなぜ泣いているのか、わからない」こと。
「聴者のママ友は、泣き声でどんな状態かある程度判断できるといいます。でも私には、ただの泣き声にしか聞こえないんです。
娘に言葉が増えてからも、泣きながらなにか頑張って話しているのに、私は聞き取れないもどかしさがありました。『もう一回言って!』と伝えても、泣き方がさらにひどくなるだけで……」
母は「産後うつ」を案じていたが、当人は「そういうわけじゃなかった」と意外にあっけらかん。
「実家を出たのは私の性格のためです。やってみなきゃわからないんだから、『とにかくやってみよう』と」
彼女はそのポジティブ思考で、ついに「競技復帰」を思い立った。
「’17年のデフリンピック(トルコ開催)で世界の壁を痛感したのが、引退の理由でした。でも出産後、バレーボールの荒木絵里香さん(41)の特集をテレビで見たんです。出産後に復帰し、’21年の東京オリンピック代表になった荒木さんに『すごい!』と憧れたのと同時に『“忘れ物”を取りに行かなきゃ!』と、われに返りました」
親に打ち明けると、父は「賛成」してくれたが、母は……。
「私は『大反対!』でした。選手ってことは子の成長を半分しか見られないんです。夫が出張ばかりで、私は大変でしたから。『結莉が熱を出しても合宿中だったら帰ってこられないでしょ!』と猛反対しました」(千里さん)
理穂さんはLINEでこう返した。
《ママが理解してくれず、協力もしてくれないのであれば、友だちやベビーシッターさんにお願いしてでも、やります!》
そんな心意気に運命が味方してくれたのだろうか、理穂さんは障害者スポーツに理解のある就職先の内定を取り付ける。それが、’22年に入社した住友電設だ。
同社初の「パラアスリート雇用」で、総務部に在籍しながら、選手生活を中心としたワーク・ライフ・バランスを保てる雇用形態だったのだ。
理穂さんは毎朝、結莉ちゃんを保育園に送り、家事をすませてから会社や練習に向かった。帰宅後に夕食をいっしょに取り、寝かせてから自身の競技の研究をするため、寝るのは深夜に。両親は「少しでもそのサポートを」と努めた。
「保育園の送り迎えを私たち祖父母でしたり、運動会に行ったりしたこともあります。結莉が小学生になったいま、理穂の帰りが遅い日は、(理穂さん宅から徒歩5分の)ウチに泊めたりもしています」(千里さん)
育児と競技、仕事の“三刀流”は一筋縄ではいかないが、両親の手助けで理穂さんの気持ちも上向いた。
「娘が熱を出せば、練習の予定も変更になります。でもそれを後ろ向きに思うのではなく、『練習がなくなって休養できたから疲れがとれた』とか、『必ずプラスの効果がある、いいほうに転ぶ!』と考えるようにしています」
その発想の転換は“父譲り”だ。
「父は『どんなピンチであっても対応できる』ことを教えてくれました。その指導がいまも生きています。いえ、これまで父に面と向かって感謝なんて伝えたことないんですが(笑)」
