カープの応援着に身を包み「チバリヨーカープ」と描かれた外壁の前でメガホンを握る安田稔さん。左手後方にカープの躍進を願うこいのぼりが舞う=本部町浦崎(写真・琉球新報社)
沖縄市で1982年から春季キャンプを続けるプロ野球セ・リーグの広島東洋カープが10日、悲願のペナントレース優勝を決めた。25年ぶりの優勝に、野球教室や応援ツアーなどで同球団の選手と長く交流してきた沖縄市や県内関係者は喜びに沸いている。原爆投下から4年後の1949年、親会社を持たない「市民球団」として設立され、廃虚と化した広島の復興と共に歩んできた広島カープ。広島の市民が経営難に苦しむ球団を「樽(たる)募金」で支えた歴史もあり、心に“カープ愛”を宿す沖縄在住の広島出身者たちの喜びもひとしおだ。沖縄の関係者らに喜びの声やカープの魅力、日本一への期待を聞いた。
【本部】本部町浦崎区。交差点に面したその家の外壁には「チバリヨー広島カープ」の真っ赤な文字がでかでかと描かれ、行き交う人々の目を奪う。1年中はためくこいのぼりには、広島カープファン歴半世紀以上を誇る安田稔さん(67)の思いが込められている。その願いが届き、ついにカープが優勝した。
安田さんが中学生だったころ、沖縄出身初のプロ野球選手・安仁屋宗八がカープに入団した。そのころからカープに「ずっと興味はあった」。決定的な転機はそれから約10年後、東京で会社員になった安田さんが旅行先の広島でカープの試合を見たことだった。「応援がとにかくすごくて。これだけ地域が一つになれるんだと思った」。以来、東京近郊のみならず兵庫の阪神戦や広島のホームゲームにも足を運ぶようになる。
“チバリヨー壁”は安田さんが地元に戻った12年前に誕生した。海洋博公園に近く、観光客が通りの前を通ることも多い。全国のカープファンが月に数回は自宅を訪ね、声を掛けたり写真を撮ったりするという。
チバリヨーの文字を描いて以来、初めて味わう優勝だ。「毎年悔しい思いをしていた。どの球団でも知恵を絞れば勝てる」という安田さん。雨風にさらされて少し古びた壁が、カープを応援した長い年月を物語っていた。
(長浜良起)
◆「赤ヘル」故郷の誇り 広島出身のROK杉原アナ
多くの広島県民にとって、広島東洋カープはただの一球団ではない。それは福山市出身で、ラジオ沖縄アナウンサーの杉原愛さん(26)も同じだ。「カープは私にとって『平和』や『故郷』と結び付く存在です」。球団設立は原爆投下から4年後の1949年。廃虚と化した街の復興に挑む市民にとって、赤ヘル軍団の活躍は心の支えだった。市民も経営難に苦しむ球団を「樽(たる)募金」で支えた。
「カープ女子じゃけぇ!」。毎週日曜に流れる冠番組のコーナー冒頭、ラジオからおなじみの一言が流れてきた。25年ぶりの優勝を決めてから一夜明けた11日午前。続く言葉に、杉原さんは先輩たちから受け継いだカープへの思いを込めた。「夢のような一日でした。これほど広島県民であることを誇りに思ったことはありません」
物心つく前から、カープは身近にあった。祖父と父がファンで、夕方以降の家のテレビは、決まってカープの試合中継。「よく家族で球場に行っていた。行きの車内で漢字ドリルをしていたことを思い出す」
25年前のセ・リーグ優勝は、自身が生まれた翌年のこと。長い低迷期の中で「カープに強いイメージはなかった」。それでも応援を続けた。「強い弱いで応援しているわけではない。学生の時も何度もカープから元気をもらった。日本一になってほしい」
(長嶺真輝)
(プロ野球・広島リーグ優勝特集より抜粋)