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顕微鏡を使ってマウスの手術をする我那覇せらさん=2015年9月、米国ジョンズ・ホプキンス大学医学部がん研究センター(写真・琉球新報社)

幼いころ、医師である父の本棚にあった法医学書を怖いもの見たさでこっそりのぞいていた少女が、米国で脳神経外科の研究者になった。那覇市出身の我那覇せらさん(31)は、現在、フロリダ州のメイヨー・クリニックで脳神経腫瘍の研究に携わっている。5カ国語を操り、最先端の研究機関で知識を集積してきた若いウチナーンチュは「ひたすら好きな道を歩んで今に至った」と語る。

 

我那覇さんの経歴は異色だ。県内高校を卒業後、米国ミネソタ州の大学に進学し、生物生化学を専攻したが、卒業後に帰国して金沢医科大学医学部に入学。在学中に米国での医師資格(ECFMG)を取得し、卒業後に研究者になった。ミネソタの大学で著名な医師の講演に感銘を受けて以来、医学の道を突き進んだ結果、世界を股に掛けた研究員になっていた。

 

前例のない道を進むことに、周囲は否定的だったが「失敗するより、何もやらないことの方が後悔する」と思った。「不可能」と言われるほど挑戦する気持ちが湧いた。

 

金沢医科大在学中に得たフランス留学の機会は、語学学校に通うのではなく、フランスの脳神経外科医に頼んで医学を学んだ。出会ったフランス人医師が米国の名門ジョンズ・ホプキンス大で研修したという話を聞くと、同大で実習することを目指し、在学中に米国の医師資格を取得。念願のジョンズ・ホプキンス大で研究と臨床の両方を学ぶ機会を得た。「ひたすら好きな道を」の精神で、一つずつ願いをかなえた。

 

ジョンズ・ホプキンス大のラボでは、脳腫瘍の中で最も悪性度が高い膠芽腫(こうがしゅ)を研究した。アルフレド・キニョーネス・イノホサ教授(ドクターQ)の下、論文の評価や研究費を得るための資料作成、実験手技の習得などに励んだ。

 

多忙な毎日だったが、ネイチャー誌に論文を出すほどの医学生と共に学び、刺激を受けた。チャリティーマラソンなど、患者と交流する機会にも恵まれ「患者さんと接することで、日々の仕事の意義を再認識し、モチベーションの維持につながった。臨床と研究が一つの概念としてつながった」。同大の医学生として過ごした7カ月間が、医師としての礎を築いた。

 

今春、名護市の万国津梁館では国際脳腫瘍会議が開かれ、海外から数百人の脳科学者や脳外科医が参加し、自らも発表した。「沖縄はすでにグローバルで、世界から大いに注目されている」と、国際化した沖縄を自然と受け止め、気負いも気後れもない。「どこにいても、沖縄にいる家族が応援団でいてくれる。いつか脳神系外科医として世界中の患者さんのために役に立つことができれば幸せだ」と語った。
(第6回世界のウチナーンチュ大会取材班)

 

◇  ◇  ◇

 

100年以上前、沖縄から世界に飛び出した移民は、移民先で苦労を重ねながら、故郷の経済を支えた。移民者らの貢献で豊かになった現在の沖縄から、高い技術や知識を持った若者が「志」を胸に海外へ飛び立ち、各国で貢献している。新世代の「世界のウチナーンチュ」の姿を追った。

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