「HYGGE」オーナーの石田環さん(右)と妻・聖美さん。こだわりのドーナツを焼き上げ、ほっと一息=10月、沖縄県宜野湾市大山(写真・琉球新報社)
お腹がグゥ~っと鳴り始める正午前、宜野湾市大山にある焼きドーナツの店「HYGGE」(ヒュッゲ)には、甘くて香ばしい香りが立ちこめます。オーナーの石田環(めぐる)さん(44歳)が丁寧に焼き上げるドーナツは全4種類(HYGGEプレーン、チーズ、クルミ、玄米プレーン)。量産こそできませんが、4歳の男の子の父親でもある石田さんの優しさとこだわりが、ふんわりと詰まっています。
石田さんがことし7月、宜野湾市大山のパイプライン沿いに店をオープンしたのは、息子の礼智(らいち)君の存在がきっかけでした。「自分も4歳ごろからおぼろげに記憶がある。おいしかった味とか楽しかった出来事とか…。僕もそろそろ、礼智に何か伝えられたらなぁと思ったんです」。子どものころ、母親がたまのお出掛け帰りに買ってきてくれたドーナツが好きだったことを思い出し、作ってみることに。2年ほど前のことでした。
初めて作ったドーナツは「正直、全然おいしくなかったんですよ」と軽快な大阪弁で高笑いする石田さん。「形もボコボコやしね。本のレシピ通りに作ったんですけど、砂糖ってこんなに入れるんか~ってびっくりでしたよ。油感もすごくてね。こんなもん僕も食べたくないしって思ったんです。それやのに、礼智は『おいしいおいしい』ってめっちゃ喜んでくれたんですよ」
その笑顔にすっかりやられてしまった石田さんは、それから数カ月間、ほぼ毎日ドーナツを揚げ続けたという。砂糖の分量や油の温度、材料や寝かす時間などを何度も何度も変えながら。妻の聖美さんは、その日々を少し迷惑そうに振り返りながら、「それまでは、あんまり食のことに関心なかったんですけど、急にパッケージの裏とか見るようになったんですよ。私がパン教室に行くって言ったら、『ドーナツ作りの役に立つかもしれへん』って一緒に参加したりね。すごかったですよ」とちゃかしてみせる。
そうした研究を重ねるうちに、北海道産の小麦粉、伊江島のむじぬふ(全粒粉)、県産の卵、アルミフリーのベーキングパウダーを使うなど、生産者の顔が見える素材を使い、甘さを極力控えた、今の焼きドーナツが出来上がっていった。「特別すごい材料じゃなく、家でも作れる素朴なものですよ。突き詰めれば、礼智に『めちゃめちゃおいしい』って言ってもらいたいだけなんですよね」と石田さん。
◇大好きな大山で
石田さんの本職はデザイナー、妻の聖美さんは雑誌『沖縄スタイル』や『モモト』でかつて編集長も務めた編集者です。2人は2004年に沖縄に移住した際、直感的に「ここだ!」と感じた大山に居を構えました。その後、一度は沖縄を離れましたが、2年半前に再び沖縄に戻ってきたときにも、やっぱり大山に自宅兼デザイン事務所「studio BAHCO(バーコ)」を構えました。
住むほどに好きになる大山の地で「いずれは専用の事務所を構えたい」と思っていた矢先、たまたま条件のいい物件に出合いました。「ただ、デザイン事務所には使いにくい。飲食店やカフェにも狭い。じゃぁ、テークアウトのドーナツ屋にしようかなと」。偶然なのか必然なのか、わが子を喜ばせるために続けていたドーナツ研究が、新しい事業展開へとつながっていったのです。
沖縄に来る前は、東京で文具や雑貨のデザインを手掛けてきた石田さん。店のデザインは自ら手掛け、壁をはがす作業から内装工事まで、ほとんどの工程を家族や友人で手掛けたそうです。もちろん、当時3歳だった礼智君も大きな戦力となりました。
◇地域の子たちの、記憶の味に
店の外観は、うっかりすると見過ごしてしまうほど控えめですが、店内に一歩入るとシンプルで洗練された空間が広がります。「HYGGE」という店名について、石田さんは「デンマーク語で『居心地のいい』『心が温まるような』という意味。英語にも日本語にも置き換えにくい単語なんですよね」と教えてくれました。
「うれしいのは、子どもを連れてきてくれたお母さんが『どれを選んでもいいよ』と言ってくれることです。市販のお菓子だと、どうしても『あれはダメ』『これはダメ』って言わなくちゃダメでしょう?」と聖美さん。石田さんは「長く店を続けて、この辺に住む子たちの“記憶に残る味”になりたいんです。大きくなって『そうそう、この味』って言ってもらえるような」と続けます。
焼きたてもおいしいのですが、冷めたらトースターで香りが立つぐらい焼き直すと、外はカリッ、中はモチッとした、新たな食感が楽しめます。「甘さ控えめなので、蜂蜜やジャム、ヨーグルト、アイスを添えてもおいしい。チーズ味のものは、ベーグルみたいにベーコンと卵を挟んでも最高です」と夫妻。シンプルなだけに、自分なりのアレンジが楽しめるのも魅力の一つです。
◇選んだのは、新しい働き方、生き方
デザイナーの石田さんと編集者の聖美さん。2人は今も競争が激しいクリエーティブな業界に身を置きつつ、わが子と地域の子どもたちのために「ドーナツを作って売る」という、もう一つの生き方を歩み始めています。
「東京で仕事をしていたら、店はやっていなかったと思う。子どもが産まれてなかったら、ドーナツ屋なんて考えもしなかったはずだし…。東京と沖縄では、仕事の仕方も生活スタイルも全然違う」と静かに語る石田さん。「自分がどう生きていきたいのかって考えると、沖縄に来て良かった。沖縄のおかげで、礼智のおかげで、大山のおかげで、この場所と新しい人生の楽しみ方を見つけることができました」。焼き上がったばかりのドーナツをほおばると、初めて食べるのになぜか懐かしい、優しい味がふわっと広がりました。
◇文と写真・佐藤ひろこ(琉球新報Style編集部)