NHK連続テレビ小説『花子とアン』は、吉高由里子演じる花子が戦火のなか、命がけで翻訳した『赤毛のアン』が、終戦から7年たってようやく出版され、続編にとりかかったところでエンディングを迎える。それからの花子は……。
昭和27年(1952)『アン』出版の年、花子は59歳。それから怒涛のように翻訳本や童話を刊行し、エッセイを書き、来日したヘレン・ケラーの通訳を務め、教育改革や売春問題にも取り組むなど、一貫して子どもと女性のために奔走した。一方では「意外な素顔」も。
花子の孫で、『花子とアン』の原案『アンのゆりかご?村岡花子の生涯』の著者、恵理さん(46)によれば、花子は子どもをすごく欲しがっており、当時では珍しい不妊治療もしていたという。それでも子宝には恵まれなかった。同じ敷地内に住む妹・梅子には3人の子どもがおり、花子は長女のみどりを養女に迎えた。
みどりは昭和34(’59)年、物理学者の佐野光男と結婚。翌年、待望の孫が生まれた。花子と同じ翻訳家になった美枝さん(54)だ。美枝さんには、花子の記憶が少しある。
「祖母は、家庭で話すと『?しちまったのよ』って、江戸弁が出る人。『赤毛のアン』に出てくるマリラのように。けっこうわがままみたいで、食べ物の好き嫌いが激しく、妹の梅子や娘のみどりとよく喧嘩していました(笑)」
糖尿病を患っているのに、甘いものをこっそり食べ、梅子に見つかっては、叱られた。「そんなもの食べたくないわよ!」「わからずや!」。ささいな喧嘩は何でも言い合える仲だからこそできるもの。
「祖母には、子どもみたいなかわいらしいところがあったんですね。熱くなる人で、ボクシングが好き。祖母は『拳闘』と言いましたけど(笑)。試合を見に行くのも好きでした。力道山の結婚式に出席し、大勢の子どもたちが、その様子を聞きにきたそうです。デパートでねだると、おもちゃをなんでも買ってくれる大甘のおばあちゃんでもありました」
昭和38年2月、いつものように夕食後、お茶を飲みながら、その日にあった出来事などを夫婦で話していた。そして夫は寝室へ、彼女は書斎へと立ち上がったとき、突然夫が苦しみ始めた。弱かった心臓はここ2年、悪化する一方だった。44年連れ添った夫は発作の2時間後、自宅で息を引き取った。享年75。喪失感は大きく、三日三晩泣き暮らした。
「祖父が亡くなって、家族で大森に駆けつけたとき、いつもなら祖母の書斎に直行していたのに、それができませんでした。祖母に話しかけられなかったんです。私が行くと喜んでくれた祖母が近寄りがたい雰囲気だったのは、あのときだけでした」(美枝さん)
花子の悲しみは深かった。東洋英和で非常勤の講義をしたとき「殉死を考えた」と話したという。
夫の死から4年後、腹心の友・白蓮もこの世を去った。恵理さん(46)は「最晩年まで女学校の仲間数名で集まっていました」と言う。この年、74歳になった花子は、夫の転勤でアメリカのデイビスで暮らすみどりに招待され、初めての海外旅行を決行。50年近く不休で走り続けてきた彼女の初めての長期休暇だった。
昭和43(’68)年10月25日、花子は自宅で仕事を終え、秘書と食事中、脳血栓で倒れた。享年は夫と同じ75だった。花子は、自分が亡き後の家族に宛てた手紙を残していた。末尾には死の半年前、3月30日の日付がある。
《さようなら!一家そろって幸福にお暮らしなさい。母の霊はいつもあなた方を見守っているでしょう。私は、愛し且つ愛されて真実の幸福を味わいました。ありがとう!私の、祝福をあなた方に贈ります。もう一度、さようなら!最愛の者たちよ!》
日々の営みに輝きを求め続けた花子の生き方。それはこれからの日本女性たちへの“祝福”となるだろう。