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女性実業家の広岡浅子をモデルにした主人公あさ(波瑠)が奮闘する、連続テレビ小説『あさが来た』(NHK)。これまでは猪突猛進に実業界に身を投じる姿が描かれたが、今後は一人娘の千代が生まれたこともあり、育児と仕事の両立に悩む母親の葛藤も、見どころの1つだ。

 

史実でも、浅子は28歳で長女・亀子を出産している。浅子も同じ悩みを抱えていたに違いないが、娘は“母の背中”を見ながらどのような女性に育ったのだろうか。複雑な事情を持つ広岡家で−−。

 

1900年に発行された佐瀬得三著『名流の面影』には、浅子は仕事に没頭するため《亀子が産まれてからは、久しく召使った従順なる一人の女をば自分が勧めて夫の妾にして今ではその妾腹に三人(実際には4人)迄の子供がある》と記されているように、浅子の夫の信五郎(ドラマでは玉木宏演じる新次郎)は、“側室”との間に、1男3女をもうけている。

 

浅子は亀子を京都府高等女学校に通わせ、嫁入り修業もさせた。広岡浅子が登場する小説『負けんとき ヴォーリズ満喜子の種まく日々』(新潮社)の著者である玉岡かおるさんが言う。

 

「浅子は誰よりも人の性格や資質を見抜く力を持っていました。亀子には大きな夢を抱かせるよりも、分に応じた幸せをつかんでほしいと考えていたようです。そのため亀子は商売の勉強はせず、お稽古中心のノンストレスとノンプレッシャーのまま、“船場のお嬢さま”として育てられました」

 

ドラマでは、2月から「田村宜」という名前の亀子の同級生が登場するが、これは浅子が育てた“もう1人の娘”ではないかと分析するのは歴史家の坂本優二さんだ。

 

「千代と同じ女学校の寄宿舎に暮らす親友で、勉強熱心な学生という設定を見ると、田村宜は、おそらく井上秀のことでしょうね」

 

秀は、浅子が1919年に亡くなったときの追悼文として、こんな文章を残している。

 

《脚気を患っておりましたので、郷里では私が再び(中略)遊学するなどということには、毛頭賛成してくれなかったのでありますが、私の素志としては、どうしても、もっと勉強の必要を感じ、修業を切に望んでおりましたので、初めて広岡さんにお目にかかったときもこのお話をいたしますと、非常にご賛成くださって、『それならば私があなたのご両親に十分納得がいくように手紙を書いてあげるから、許しが出たら私の家に来て、(中略)(亀子と)いっしょに勉強なさい』とおっしゃって》(『家庭週報』501号「頻々と到る死の教訓 嗚呼 広岡浅子刀自」)

 

前出の坂本さんは次のように語る。

 

「娘の亀子はおとなしい性格でしたが、秀は活発で好奇心旺盛。そこに浅子は自分に似た部分を感じ取ったのかもしれません。“この人ならば、自分の理想とする女子教育、女子大学を引っ張っていけるんじゃないか”と早い段階で教育分野の後継者にと見込んでいたようです」

 

その後も浅子は、日本女子大学校創立のために共に奔走していた成瀬仁蔵に秀を紹介して、直接の指導を願ってみたり、果ては九州の炭鉱の視察にまで秀を同行させるなど、実の娘以上に目をかけた。

 

「秀は浅子の期待に応えるように1901年、日本女子大学校の1回生として入学し、家政学を修得、卒業後には米国留学しました。帰国後は日本女子大学校の教授になり、日本有数の家政学者として知られたほど。そして1931年、同大で女性初の校長となったのです」(坂本さん)

 

ドラマではどのような“母親ぶり”が描かれるか、あさの後半戦も楽しみだ!

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