「幼いころから、ずっと不安を抱えて生きていました。それを初めて忘れさせてくれたのが、子育てしながらチャレンジした『書くこと』でした。一歩踏み出したら、日常とは違うアナザーワールドの扉が開くかもしれないと、その繰り返しで今日まできました」
『魔女の宅急便』や『ちいさなおばけ』シリーズで知られる角野栄子さん(83)は3月26日、児童文学のノーベル賞といわれる「国際アンデルセン賞」の作家賞に選出された。白髪と原色のメガネという個性的なスタイルで穏やかに語る姿は、まさにおしゃれ魔女のようだ。
12歳の魔女キキが、宅配便屋さんとして活躍する代表作『魔女の宅急便』は野間児童文芸賞などを受け、本編6作と特別編2作で累計167万部に達し、英語や中国語などにも翻訳された。’89年には宮崎駿監督によってアニメ映画となり、約265万人を動員して、新たな作品のファンを生み出した。
ほうきにまたがる代わりにペンを握って、角野さんは創作の大空を自在に飛び、新たな扉を開いてきた。キキに寄り添う黒猫ジジならぬ、次々と沸き上がる想像力を相棒にしてーー。
「人生で最初の記憶が、病院のベッドで横たわる母の姿。真夜中にタクシーで東大病院に駆けつけましたが、臨終には間に合いませんでした。姉とまだ乳飲み子だった弟を残して母が病死したのは、私が5歳のときでした」(角野さん・以下同)
暗い病室で、3歳年上の姉が「お母さんを返して!」と叫んだ。すると医者は、泣き続ける姉妹に向き合い、「ごめんね。世の中には、どうにもならないこともあるんだよ」と言った。続いて、納骨式で目にした墓石の下の深い暗闇。とめどない不安が、このとき角野さんに覆いかぶさってきた。
角野さんは’35年(昭和10年)1月1日、東京は深川で、質店を営む家に生まれた。
「母の死以来、また大切なものを突然奪われるのではないかと、いつもおびえていました。情緒不安定、いったん泣き出したらヒステリックで、ご近所からも“サイレンの栄子ちゃん”なんて言われて。夜中に泣きながら父の布団に行くと、『お入り』と招き入れてくれて。すると温かくて安心するんです」
“見えないものの大切さ”を日々の生活の中から教えてくれたのも、父親だったという。
「当時、お盆になると門口で迎え火をたくんですが、そのとき父は、『タンスの位置が変わりましたから間違えないよう、お仏壇まで行ってください』なんて言うんです。すると、お線香の煙にのってきた母が家にいるのを感じる。見えないけれど、いる。だから、その数日間は、いい子になってたり(笑)」
遅いデビューだった。結婚と出産を経て、2年間のブラジル暮らしの経験をベースに書いた第一作『ルイジンニョ少年』が出版されたのが35歳。『魔女の宅急便』が世に出たのはさらに15年後の50歳のとき。魔女という存在からは大切なことを教わった。
「もともと魔女というのが、“こっち”と“あっち”の境い目にいた存在だったんですね。私も、日常のすぐ隣にある不思議を切り離して考えるのではなく、リスペクトしながらともに生きたい。そう思うと、父が幼いころから繰り返し言っていた『見えない世界なんてないと思ったら大間違いだよ』という言葉がいっそう愛おしいし、母の死さえ“贈り物”はあったんですね」
不安で、悲しくて、泣き虫にもなったけれど、母の死がきっかけで死について思い、それは生きる意味を考えることにつながったのだ。
病院のベッドに横たわった母の記憶。不安が「ここではない、どこかへ」という思いを駆り立てた。「書くこと」で不安から自由になれる。飛躍する想像力で描かれた、“あっち”と“こっち”の世界をつなぐ物語は、いつしか私たちを“見えないものが見せる世界”に連れてってくれる。
角野さんはおちゃめに笑う。“だから、私も魔女なの”と。