今までに何度か『国際結婚』をテーマにしたテレビのトーク番組や雑誌インタビューの企画をいただいたことがありますが、何となく気が乗らなくて、ほとんどお受けしたことはありません。
エッセイ漫画などでは、これでもかというくらい、私のイタリア人の夫やその家族についてのあれこれを赤裸々に描いてきたので、企画の依頼をされる方たちにしてみれば、どうして今更このリクエストに応えてくれないのかしら、と思われているのではないでしょうか。
理由は簡単です。自分のプライベートを、フィクションのような笑いに昇華し、それを周囲が楽しく受け止めてくれるのは心地いいけれど、真っ向から自分の置かれている状況を見つめてみると、事実は決して楽観的で安易な構造では成り立っていないからです。なので、デフォルメさせた非現実的登場人物でお笑い漫画として表現する以外に、リアルなイタリア家族を積極的に語りたい、という気持ちにはあまりならないのです。
たまたま今回日本に滞在している間、NHKの朝ドラが新しくスタートしました。朝ドラは、出だしがつかめないとなかなか見続けていく気持ちになりにくいので、海外に暮らしていると見るきっかけを失ってしまうのですが、今回の『マッサン』はうっかり初回を見たがために、毎日の視聴が楽しみになってしまっています。
『マッサン』の場合は、海外とかかわりを持ってしまった日本人と、そして国際結婚という、自分にも身に覚えのある経験をした人物たちが主軸になっていますから、きっとそれも私が引込まれた大きな理由だったのかもしれません。
日本を離れて30年以上経ち、漫画のヒットをきっかけにさまざまなメディアで、少し特異な自分の過去や経験についてしゃべる機会もたくさん増えましたが、それを健やかな好奇心で受け止めて下さる方もいれば、「海外かぶれの何様目線」的な見方をされてしまう場合もあります。
みなさん、さまざまな見解のフィルターを持っているわけだから、解釈もそれぞれだとは思いますが、それでもいつも感じるのは、大きな大陸にいくつもの国境があったり、植民地とのかかわりが深い欧州とは違って、日本は異文化の特殊な考え方や解釈の混入をスムーズには受け入れてもらい難い、ということです。
もちろん、異文化の浸透を、どこの国も何の苦もなくこなせているかというと、そんなことは決してありません。家族と暮らしているイタリアも、それまで暮らしたポルトガルやシリアといった国でも、私はその土地の人が考えない意見をもつ異邦人の扱いをうけ続けていました。でも、その特質性を否定される、ということはないわけです。世界は広いし、いろんな人種がいるから、考えていることもそれぞれ違って当たり前という概念が、彼らの生活には根付いています。
一緒にやっていく難しさはあっても、その差異を認めて共存していかなければならない、という姿勢は、それこそ古代ローマが1200年もの間にわたって大国であり続けられた、秘訣のひとつでもあるわけですから。
だから、人種のるつぼである移民大国アメリカに暮らしていたときや、ブラジルのような国では、私はいっさいの緊張感を強いられず、普通に「統一性のない一般人」としてやりくりできる気楽さを体験しました。そこには、はるかに自分よりも特殊な経験をした人たちがたくさんいて、いちいち「あんた変わってるわね」なんて感じるゆとりを許されないからです。