1月某日 東京
私の暮らしているイタリアという国は1970年まで、基本的には余程の事情が無い限り離婚は認められておりませんでした。夫婦間で離婚を決めても、別居という一定期間を経なければ次のプロセスには進めず、それには最低でも3年間という月日の経過を待たねばなりません。その後に無事、法的には離婚が成立しても、それは民事婚が解消されたに過ぎず、カトリック教会で結婚をした人はそちらでの手続きも必要になります。
しかもそういった離婚の手続きも、それぞれが弁護士を雇って進めるのが常なので、そうなるとお互いに莫大な費用もかかってくることになってきます。つまり、つい最近までイタリアでの結婚というのは、手軽に離婚のできる国と比べて、相当の覚悟と決意がなければ踏み切れないものでもありました。
それが、やっと去年になって条例が変わり、協議離婚であれば法的成立まで最短6ヶ月に短縮されるようになったのです。理由はいくつかあるとは思いますが、いくらローマ・カトリックという宗教の倫理観が根付いた国であるとはいえ、他の先進国では離婚というのが至極当たり前になっている今の世の中の傾向を無視できなくなったことが上げられるでしょう。
協議離婚ですら、日本のように離婚届と印鑑さえあればすぐに実施されるわけではなかったイタリアでは、結婚後に出会った他の人と伴侶以上の相思相愛の間柄になってしまっても、最低3年は待たなければその人と改めて結婚をする、という可能性すら持てなかったわけです。
そうこうしているうちに、いったんは離婚と再婚を決意していてもその後の面倒くさい手続きにエネルギーを費やし続ける意欲と情熱も萎えて、結局はもとの夫婦関係を惰性で保ち続けてしまう人もいます。最初から破綻の可能性を見込んで、結婚はせずに同棲を続けるという人もいます。そういう現実を踏まえる人たちにとっての結婚は、最初から夢や幸せを保証してくれるものでもなんでもないわけです。
そんな事情もあって、ヨーロッパでもかのフランスを凌いで不倫関係が多い国と言われるイタリアでは、実は結構当たり前に伴侶以外のパートナーを持っている人が自分のまわりにもいます。もちろん感情を表へ出さないようにするのが苦手なイタリア人たちですから、不倫とはいえすっかりその関係を妻や夫に隠して続けているのではなく、大修羅場になりつつも、家庭内離婚か別居という殺伐としたバックグラウンドを背負いながらも、別の人と付き合っている、という人も少なく無いという事です。
不倫報道で、自らの倫理観を整理したり確認をしている人々……
身近な人の例で言えば、私をイタリアに招聘したマルコ爺さん(故人ですが)は、1950年代に民事における離婚を成立させた人です。しかし、妻とは完全に関係を絶ったわけではなく、生活費も出し続け、亡くなった後の遺産も彼女には分配されるようになっていました。マルコ爺さんはDNAレベルで無類の女好きという性質を持って生まれてきてしまった人であり、妻も周りの人もいちいち彼のそんな性格に翻弄されるのが面倒で疲れるから、あとはもう自由にやってくれ、ということで当時にしてみれば一大スキャンダルであったはずの離婚も、家族全員が納得した上で果たせられたのだそうです。
離婚がしにくい国と言いつつ、そのような事例は他にもまだあります。例えばイタリアの元首相であるベルルスコーニも妻子がいながら何人もの女性と関係を持っていましたし、多額の慰謝料を条件に妻との離婚は果たしつつも、またその後も新たな女性たちとの関係が絶えず、もはや国民もベルルスコーニの女性関係がスクープされてもそれに対していちいち意識を向けたりはしなくなっていました。
フランスにおいても、例えばオーランド大統領の不倫も、サルコジ前大統領の妻の不倫も、ミッテラン前大統領にしても、複雑な女性関係が常に暴かれてきていますが、確かに何十年もある人生の長い時間、例え清らかな希望に満ちた誓いの言葉を結婚式で交わしても、所詮人間という生き物は何が起こるかわからない、ということをヨーロッパの人たちは当たり前に潜在意識で認識しているように思われます。
イタリアでもフランスでも、有名人の不倫発覚だの、愛人発覚だのという沙汰は、一部ファナティックなキリスト教的倫理観を持っている人以外にとっては、もはや珍しくも驚くべき事でも何でもないことになってしまっているのです。
年明けの日本ではベッキーさんの不倫疑惑問題で大騒ぎになっていましたが、このスキャンダルが発覚した事によって多くの人たちが自分たちの立場を照合しながら、この件についていろいろな思いや意見を交わし合ったり考えたりしているのが何だかとても新鮮でした。
「相手が誰であろうと恋愛まっしぐらになってしまったベッキーの気持ちがわかる」と擁護する若い女性もいれば、「〝卒論〟とか、妻を舐めるんじゃないよ!」と憤激する中年主婦もあり。「LINEのやりとりが公表されるとか怖過ぎる」とびびる男性もいました。テレビで見た街頭インタビューに答える人々は、そういった様々な見解越しに自らの倫理観を整理したり確認をしているように見えました。
私は芸能情報に疎いですし、前述したように、男女関係や結婚については歪曲した考え方や顛末が多過ぎる国に暮らしているせいで、この報道について特別何かを強く感じる事もなかったのですが、敢えて何かを思うとすれば、この世に男と女がいる限り、人生にはどんな問題も起こりえる、ということです。
なにせ結婚が決して永遠の心の結束にはなり得ないという現実を、カトリックの由緒正しき倫理をどこの国よりも頑に守り続けてきたイタリアですら、認めざるをえなかったわけですから。