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10月某日 北イタリア・パドヴァ

大隅良典さんのノーベル生理学・医学賞受賞を、私はイタリアのニュース番組を見ている最中に知りました。ご飯を食べながら一緒に画面を見ていた旦那は、ちらっと映った大隅さんの佇まいを見て「いい雰囲気の先生だねえ」と一言。日本でこの報道が伝えられてからおそらく数十分後のことだったので、PCを開いてソーシャルネットワークを覗いてみると、すでにどのタイムラインも大隅さんの受賞で盛り上がっていました。

 

この大隅さんの受賞会見の発言がまた、とても印象的でした。「(すぐに)役に立つかどうかという観点でばかり科学を捉えると、社会をダメにすると思う」というインパクトのある言葉に感慨深くなってしまった人たちも少なく無いとは思いますが、確かにこれは、科学分野の研究職の人たちだけでなく、工学や文化系も含めた幅広い開発や創造の分野に携わる人々にとって、深い意味を持った一言だったのではないでしょうか。

 

私のエンジニア職の舅など、もともと〝役に立つ〟し、周りからの賞讃も保証される部類の仕事と言えるイタリアの某有名高級自動車メーカーに勤めていたのに、急に会社の方針が気に入らないと喧嘩になって辞職し、それ以来もう何十年も自分のラボラトリーに籠って独自の変な乗り物を作っています。

 

勿論家族はいきなり会社勤めを辞めてしまうような舅を最初から暖かく見守ってあげられる程寛容ではありませんでしたし、現実的見解を持つ主婦の姑は未だに「そんな役にも立たないものを何十年も掛けて作り続けて、この先一体どうすんのさ!」と怒鳴り散らかしてばかりいます。しかし舅はその都度「別に役に立たなくていいんだよ、ほっといてくれ」と取りあいません。そもそも、この人はお金に困窮したことのない裕福な家の出なので、エンジニアという仕事を利便性や稼ぎという結果に無理矢理繋げようとは考えていないのです。一般概念からすれば姑の言い分はもっともですが、生き方の捉え方の根本が違っているのだから何をいってもおそらく一生平行線のままでしょう。

 

最近は周りも皆諦めて、変人開発者として、奇妙な乗り物を懸命に作り続ける舅を遠くから見つめているだけです。でも考えてみたらこの私だって、沢山の人に読んで欲しいなんておくびにも思わずに、自由気ままに描いた漫画がヒットした過去がありますから、〝今やっていることが何か社会的な結果をもたらすかもしれない〟という思惑に捕われない解放された脳のほうが、意欲旺盛に作業に打ち込めるという感覚は、とてもよく理解できます(数回前にこちらのエッセイで取り上げたリスボンでの滞在記で、当時の心境の詳細を語っております)。

 

大隅さんはのんびりと、財政的にもそれほど恵まれているとは言えなかった環境の中でもこつこつとご自身の研究を続けてきた研究者であり、研究=お金という意識に縛られずにいたことが、逆に今回のような大きな結果をもたらしたというわけです。お金が掛かっている分、人様の、そしてこの世の為に、役に立つことをしなきゃいけない、という気負いが混ざらなかった事が、今回のような展開を導くことも十分に有り得るのです。

 

考えてみたら、現在、私が自伝をコミカライズしているスティーブ・ジョブズという人も〝世の為、人の為〟は後回しだった人間でした。機能よりも自分の嗜好に叶ったデザイン性や存在感を優先順位にしたその考え方が、アップルやその他の機器の開発時に技師たちとの間に沢山の軋轢を生むきっかけになってしまいましたが、彼にとってはそれに伴う〝不便さ〟はむしろアドバンテージだったわけです。役に立つとか便利さばかりに気を止めていると、ジョブズ的には許せないデザインのものが出来上がってしまう。

 

でも商品をじゃんじゃん売ってお金にしようと思っている会社側にしてみれば、ジョブズの独特なセンスは受け入れ難いものがあったわけです。それが理由でジョブズ自身も何度も辛辣な目に遭ってきましたが、彼は最後まで妥協はしませんでした。その頑な、端からしてみればむしろ受け入れ難い考えや態勢が、最終的には世界に名を馳せる大企業の発展へと結びついていくわけです。

 

そういえばノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベルという人は、ダイナマイトを開発した科学者ですが、同時に鉄工所を兵器メーカーに発展させた大実業家でもあります。彼の発明品がやがてその後世界中で繰り返される戦争で、人間や地球に大損害を与える兵器となり、それを大量に生産することで巨万の富をもたらす工場を経営していた人物の遺産によって作られた賞を、今回「(すぐに)役に立つという言葉が社会をダメにしている」と感じている研究者が受賞したことは、何だかとてつもなく大切なことのように思われてなりません。

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国別に受賞者が何人とか数えても意味がない

ところで、今回のノーベル賞のニュースでもう1つ気になったことがあります。それは、自分の国の人間が世界的な権威のある賞を何人取れるのか、ということにどことなく執着しているような報道の様子です。

 

ノーベル賞というのも、オリンピックと同じくもはや現代社会においては、地球上のそれぞれの国の国威を象徴するきっかけのようになってしまっていますが、正直、受賞したのがどこの国のどんな人であるかというのはそんなに重要な事なのだろうかと、私のように国籍のアイデンティティが曖昧な人間は感じてしまうわけです。

 

彼らは地球上に住まう人類という次元で、賞讃に値すると選ばれた人たちです。なのに、何故に個人のあり方だけではなく、その人たちの所属する組織や国を重要視したがるのでしょう。世界に認められる業績を為した素晴らしい人物を育んだ国、という意識に同郷人として気持ちが潤うからなのでしょうか。

 

かつて旦那が研究者として通っていたアメリカのシカゴ大学は今までにノーベル賞受賞者を89人(短期間この大学と関与しただけの人も含む)輩出していますが、どの生徒も研究者もそんなことを気に留めている気配はありません。

 

まあ、アメリカのような巨大国家では、別に誰かがノーベル賞を取ったところで今更自国や学校自慢の糧にもならないでしょうし、全米随一のガリ勉大学と言われているシカゴ大学自体、ノーベル賞受賞者の数で浮かれているような校風では全くないように見受けられました。皆それぞれの学術に懸命な人たちばかりで、賞のことなど頓着している場合ではないのでしょう。

 

ちなみにウィキペディアで日本のノーベル賞受賞者という項目を見てみると、「日本国籍時の研究成果で受賞した元日本国籍の受賞者」という欄が出て来ますが、この項目は捉え方によっては「日本人だったお陰でそういう結果を出せた人たち」という意味にもなるわけです。種族の優越性意識が丸出しになっていると言えなくもありません。

 

スポーツであれ、学術であれ、文化であれ、確かに日本のように小さい領土の国の人間が世界規模の大きな結果を生めば国民は皆勇気をもらえるだろうし、元気にもなるでしょう。でも恐らく、賞を与える側にしてみれば、それはその人個人の業績に対して贈るものであって、その人の国籍や国を誉め称える為ではありません。

 

どうしても人数を数えたいというのなら、国別に受賞者が何人、ではなく『地球全体で何人』という感覚で捉えてこそ、本来のノーベル賞というもののあり方にふさわしいようにも私は思うのですが、どうなのでしょう。

 

まあ何はともあれ、大隅先生のような方がこの賞を受賞されたのは単純に喜ばしいことであります。〝役に立たない研究〟、万歳。

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