2月某日 北イタリア・パドヴァ
北朝鮮・朝鮮労働党委員長の金正恩氏の兄である金正男氏が、もしかしたら弟の指令で殺されたかもしれないという今回のニュースを追っていて、私は古代時代の神話や実話などにある、兄弟同士の殺人事件のいくつかを、思い起こさずにはいられませんでした。
まず旧約聖書の『創世記』にあるアダムとイブの息子たち、カインとアベルの事件ですが、これは人類史上記録されている最も古い〝殺人事件〟とされています。理由は極めて単純で、古代イスラエルの唯一神であるヤハウェが、自分の供物ではなく弟の供物のほうを気に入ったことに嫉妬して、兄のカインが弟のアベルを殺めてしまうのです。
紀元前753年にローマを建国したとされる、オオカミに育てられたふたりの兄弟ロムルスとレムスも都市建設の権利を巡って兄弟同士で争い、兄のロムルスが弟のレムスを殺してしまいます。その後、兄によって作られた街はロムルスの名を取って“ローマ”と名付けられました。
古代の神話では実父を殺して実母と結婚するオイディープスという人物がいますが、この人の子供ふたりも互いに権力を争って剣で刺しあって死んでいますし、日本の神話でもヤマトタケルが双子の兄であるオオウスノミコトを殺したと伝えられてもいます。世界全体における伝説や神話の中での、こういった兄弟同士による殺害のエピソードは、調べてみたらおそらくかなりの数に及ぶにちがいありません。
今でこそ、我々人間は法律に従い、生きる上で守るべき秩序を学び、様々な宗教の教えによって倫理というものを身につけ、やっていい事や悪い事、愛だとか慈悲だとか、寛容だとか忍耐だとか、そういった認識によって本能的な衝動性を抑えつつ、社会での生活をやりくりしています。でも、このような神話や伝説からも伺えるように、そういった人としての倫理観が確立していなかった時代には、家族内や近親での殺人事件というのも、日々の人間の営みの中では十分に起こり得てしまう事象だったといえるでしょう。
家族愛という概念が浸透する前は、時にはどんな他人に対してよりも憎い存在になりえたのが血縁関係者だった、という実態もこうした古代の神話などからも垣間見えて来ます。
実際、今の世の中でも、普通の一般家庭でも家族同士で仲が悪いというのは別に珍しいことでもなく、日本でもかつては親が子を勘当する、というケースもありました。地域かまわず、どこにいても遺産相続などの経済的トラブルを巡って散々揉めたあげくに兄弟同士の縁が切れてしまった、といった話はよく聞きますが、実際私の姑は実兄弟2人と親の残した遺産相続の件で何度も裁判沙汰にもなり、今ではお互い全く付き合いがありません。姑に言わせれば「死ぬまで顔も見たくない」のだそうです。
神話や伝説だけではなく、現実の世界の中でも、例えば古代ローマ時代の権力抗争による近親者間や親子同士の殺人、そして兄弟殺しの発生件数は少なくありません。もちろん、そこには家族同士での憎悪だけではなく、彼らの周囲にいた側近などの関係者たちの思惑や悪意もかかわっていた場合もありますが、それにしても、歴史書でそういった事実を確認するたびに、今の我々の社会における家族というものの考え方との、根本的な概念の違いを感じずにはいられなくなります。
そう、キリスト教という宗教的理念が入り込む前の古代ローマでは、少なくとも家族というのは愛情で結びつく団体を意味するものではなく、財産、奴隷もふくむ、ある種の法的制度だったのです。
地球に生きる人間のメンタリティの基軸は何も変わっていない
私は現在『プリニウス』(とり・みきさんと共著)という漫画で古代ローマ時代の悪徳皇帝として名高いネロを描いていますが、この人も本人の意志というよりは、ほぼ母親の陰謀(前皇帝の暗殺)で若いうちから皇帝の座についたあと、自分を好きなように操る母親や、無理に結婚させられた妻を容赦無く暗殺します。それだけでなく、この親族の暗殺計画にかかわったとされる中に彼の家庭教師でもあった側近のセネカという人物がいましたが、最終的にネロはこの自分にとって大切な後ろ盾である恩師までも殺害してしまうわけです。
数年前、北朝鮮の金正恩委員長が自分の叔父であり後ろ盾でもあった張成沢氏を処刑した事件は、このネロとセネカの話を必然的に思い出してしまいます。
古代ローマにはこんな話もあります。
とある戦でたったひとり生き残った戦士が家へ帰ってみると、愛する妹が闘った敵側の男と婚約をしているのを知って、ショックでこの戦士は妹を殺してしまいます。戦士は法に裁かれ死刑を言い渡されますが、彼の父親が自分の息子は家族よりも国家を守ったのだと息子の名誉を訴え、人々を納得させ、告訴を取り下げさせたというのです。
“家族より国家”という考え方がこのように優先される時代であれば、金正男氏殺人事件も、もしもそれが本当に弟である金正恩氏が企てたものだとしたら、彼が権力者である限り全く不自然でもない話だったのかもしれません。古代ローマは時代の進化とともに徐々に権力者の考え方も変わっていきましたが、果たしてこの国も何らかの変化を遂げていけるのでしょうか。
この事件はイタリアでも一種の考察のしがいのあるミステリー的扱われ方で報道されていたところがありますが、周囲のイタリア人たちは古代ローマ時代の、皇帝たちの家族の間で繰り広げられてきた無謀な出来事の知識があるので、「権力が絡めば兄弟同士だろうとこういうこともあるでしょう」などと、家族愛が代名詞になっている国民性にしては、実にクールな反応をしていました。でもそれはこの事件が自分たちからは遠く離れた、宗教観も違うアジア圏での出来事だったからなのかもしれません。
先述した現在連載中の漫画『プリニウス』で、我々は古代も現代もこの地球で生きる人間のメンタリティの基軸にあるものは、最終的には何も変わっていない、というところに焦点を当てて話を展開させています。
時代はどんなにその年数を重ねても、テクノロジーがどんなに進化を遂げても、では人間の知性の資質はどうなのか、昔より今のほうが果たして進んでいると言えるのかどうか。そういった意味で、今回の事件もまた昨今の古今東西における様々な事象と並んで、深く考えさせられてしまうのです。