施設に入る前までは、外で自由に遊ぶことが大好きだった利勝さん。とくに釣りが好きで、友達としょっちゅう海釣りに行っていたそうだ。
しかし、施設で生活するようになってからは、一切外に出れない生活となった。

「日も浴びないという生活が2カ月続き、ちょっと性格的に暗くなりましたね。園部にいたころはけっこう太っていたんですけど、精神的なストレスで10㌔以上激ヤセしました。2つ目の施設に移ってからは、さらに暗くなりましたね。ショックだったのは、以前通っていた小学校のクラスメートたちが、“頑張ってね”みたいな手紙を一人ずつ書いてくれたんです。それを先生がまとめて施設まで持って来てくれて…この時は嬉しさのあまり泣いてしまいましたね。“また帰って来て一緒に釣りに行こうね”とか書いてあって、それを読むのが唯一心の喜びでした。だけど2番目の施設に入ると同時に捨てられました。荷物は極力少なくしろということで、ほとんどの持ち物を処分されました」

外出もできない施設の生活は、まるで犯罪者扱いのようだったという利勝さん。その反発で施設を抜け出し、2人の姉と一緒に和歌山東警察署前で、『お父さんとお母さんを返せ!』と叫んだこともあった

「お姉ちゃんたちに服を引っ張られて連れて行かれたという感じですけどね。お姉ちゃんたちは何度も叫びに行ってましたよ。でも今考えてみたら、両親はすでにそこにはいなかったんですけどね」(利勝さん)

施設に入ってから、以前一緒に釣りに行ったり、よく遊んでいた友達とはそれっきり。いまだに当時の友達と会うことはもちろん、連絡すらとってはいない。
かつて林家では1人一部屋だった生活から、一部屋6畳ぐらいのスペースに8人が寝起きする施設の生活。しかも利勝さん以外は高校生ばかり。これだけいじめられるんだったら、生まれてこなければよかった…と思うことが何度もあったそうだ。しかし彼は、自殺をしようとはまったく考えなかった。

いじめの原因が両親にあることがはっきりとわかったのは中学生になってから。「親なんかおらんかったらええのに」と、利勝さんは2人を憎んだ時期もあったという。

そしてそのことを綴った手紙を拘置所にいる眞須美被告に何度も書いたそうだ。

“生まれてくるときにイエス・ノーの選択肢があったなら、俺は間違いなく『ノー』を選んでいた”

眞須美被告からの返事は、毎回『ごめんね、ごめんね』だったという。

父を怨み、母を怨み、そして世の中を怨んだ中学校時代。しかしそれが徐々に“無駄”なことだと気付く。

「心が折れそうになったことは何回もありました。でもある時、怨んでもしょうがないな、と思ったんです。怨んだところで両親が出てこれるわけでもないし、この生活が変わるわけでもない。グレたらもっと印象が悪くなる。だったら真っ当に生きてやろうじゃないかと、開き直りました」と語る利勝さん。

とはいえ、その当時はまだ中学生。みんなが寝静まった後、布団の中に潜って号泣することが何回もあったという。現在も、その頃を思い出すたびに涙が出てくるそうだ。

続きは明日4月25日シリーズ人間【林眞須美和歌山カレー事件・林家の10年毎日更新

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