東京都板橋区にある「老犬本舗」は、老犬ホームと呼ばれる都市型老犬介護施設。鉄筋ビルの地下1階の玄関を開けると、まずこれまで預けられた犬たちの写真が出迎えてくれる。続いて大きなガラス窓越しに20畳ほどの飼育ルームが見えた。10月下旬の時点で、6匹の終身預かりの犬たちが入所していた。
「実家で父が飼っていた柴犬の茶々が認知症になって夜泣きが始まったとき、預ける場所がなくて、仕事も休めずに本当に困って、父が『犬を介護してくれる場所があったらなぁ。俺が若かったら、自分でやるんだけど』と言ったんです。それから老犬の環境について調べたり、資格の勉強をするうちに、こうした施設の必要性を再確認しました」
そう語るのは、施設の代表である川口美恵さん(38)。オープンは’11年6月。預かりのシステムは短期と長期、終身があり、短期型は中型犬で1泊6千300円、長期は初回入居金とケア料金が1カ月それぞれ7万8千750円。営業時間は午前10時から午後6時までだが、その後もモニターによる見守りが行われ、24時間受付の獣医師とも協力関係にある。
この2年半で老犬本舗で預かった犬は約80匹で、うち6匹の最期をここで看取った。その1匹が、現在はスタッフの卯月さんが15歳から飼っていたバニラだった。卯月さんの多感な10代から20代を共に過ごしたバニラに、異変が起きたのは昨年9月。
「バニラが16歳になる直前でした。まず散歩の足どりがぎこちなくなって、そのうち右回りにグルグル回るようになって、ネットで調べると認知症の症状とあって。えっ、犬にも認知症があるのと驚きました」(卯月さん)
3カ月後、ひどい夜泣きが始まった。バニラの認知症が進むと同時に、家族の疲労もピークに達した。近所に老犬本舗があることを知り、見学もしたが、やはり私が面倒を見るべきだと、預ける決心はつかなかった。だが、ついにバニラの入所を決めたのは、住んでいた集合住宅の階下の住人から苦情がきたのと、母親が自分の通院さえできない状況に追い詰められていたからだった。
今年1月7日にバニラを預け、卯月さんは週末ごとに家族で面会に訪れた。だが、半年後の7月17日、バニラは永眠した。しかし、それから卯月さんの新しい苦悩が始まった。「いわゆるペットロスです。仕事も手につかず、2週間後に退職しました」。そんな卯月さんに、「もし新しい仕事を探しているなら、うちで働かない?」と、川口さんが声をかけた。
川口さんは、面会に来るたびに自分の愛犬だけでなく、ほかの犬たちにも体をかがめて話しかける卯月さんの姿を見ていた。10月1日から始まった試用期間。世話をする6匹の犬たちのなかに、バニラとは“同期”となる「親方」がいた。
月が変わり11月6日だった。記者が施設に足を踏み入れたとたん、いつもと何かが違うことに気づく。川口さんが、真っ赤に泣き腫らした目で語った。
「昨日、緊急で病院へ運ばれていた親方でしたが、今朝病院で亡くなりました。いったんここへ立ち寄り、その後、飼い主のご夫婦が抱っこして自宅に帰りました。ごめんなさい。私も卯月も泣きすぎて厚化粧で誤魔化しててこんな顔で。もう、あの場所に親方はいないんです」
玄関での違和感は、いつも親方のいた場所にぽっかりと空間ができていたせいだった。
「うちのバニラが親方と同期だったから、いつも面会から帰って家族と、『今ごろ、バニラと親方はどんな会話をしてるんだろうね』と話していました。感謝しかありません」(卯月さん)
こうした命のドラマを積み重ねていくなかで、川口さん卯月さんも、犬たちから多くを学んだという。
「飼い主さんも育った環境も違えば、病状も体力も違う。1匹1匹がそれぞれの命を持っているんだと知りました。そして命とは、どんな状況になっても、ぎりぎりまで必死に生きようとするものだと教わりました」(川口さん)
飼い主と老犬ホームのスタッフ。2つの家族に見守られて、犬たちは最期の瞬間まで懸命に“犬生”を生き抜く。