NY在住の沖縄出身アーティスト照屋勇賢が紅型「Heroes」で安室ちゃんを描いた理由
沖縄を代表する染織技法の一つ「紅型」。赤や黄、藍 緑など鮮やかな色彩とリズミカルな文様が特徴で、アジアとの交易を通じて、発展した琉球王国を象徴する伝統工芸だ。その紅型の技法を用いて、米国・NY(ニューヨーク)を拠点に活動するアーティスト、照屋勇賢さんは2009年、沖縄の「ヒーローたち」の肖像画を発表した。作品シリーズの最初に描いたのが、歌手の安室奈美恵さんだった。
「平成の歌姫」として日本のアイコンになった安室さんが「沖縄の色彩」に染まってこちらを見つめる作品に、はっとさせられる。照屋さんはなぜ、安室さんを「Heroes」に描いたのか。NYのアトリエを訪ねて聞いてみました。
(聞き手=座波幸代・琉球新報ワシントン特派員)
◇「北極星」のような存在
―「Heroes」という作品を作るきっかけを教えて下さい。なぜ安室奈美恵さんを取り上げたのですか?
実は『Heroes』はまだ終わっていなくて、連作として次のタイミングを待っています。安室奈美恵さんのポートレートから始まって、今のところウルトラマン、オバマ大統領、ジェロニモまで。取り上げた動機はそれぞれで、安室さんから昭和天皇まですごい差があります。
最初に取り上げたのが安室さんでした。紅型をポップにしたい、沖縄の現状を視覚的に見せるようにしたいという思い。紅型の歴史を通して現代のイメージを持ってくるという実験行為でもありました。ポップ性と沖縄のアイデンティティーのよりどころをどうやって組み合わせるか。沖縄のアイデンティティーを視覚的にするためには、やはりモデルが必要です。
そして、視覚という意味では、僕自身が既に何作かつくっていた経験と、中国でもない、日本でもない、『これが沖縄だ』という視覚的なもので見せるのは紅型だと思っていました。ポップ性と、一目で分かる沖縄のアイデンティティーを絵画という枠組みで表現しようとしたとき、安室さんと紅型技法が一緒になっていきました。
―もともと持っていた安室さんへのイメージは?
この曲が大好き、という個人的なアタッチメントがすごくあった訳ではないけども、ある種、ずっと距離を置いて見ている側として、空に『北極星』があるように、常に彼女の存在はありました。自分自身がどこに身を置いていても、彼女の存在はいつもそこにある。まさに、『にぬふぁぶし』(沖縄の言葉で「北極星」の意味)という存在。それが『スター』の位置付けなのだと思います。
とにかく安室さんを最初に描こうと考えたし、どんな作品になるのか、シリーズになるのかも分からなかったけど、安室さんを描くことを躊躇してはいけないと思いました。
アンディ・ウォーホールの実践を沖縄に置き換えることもできるんじゃないかという動機もありました。彼がシルクスクリーンでやったことは、そのスターの、セレブリティのエネルギーをそのままフローズンさせて、彼の色彩感覚で花開かせたこと。彼自身、セレブリティが大好きで、自分もその一員として一緒になってNYを元気にさせた。そこからアイデンティティーの問題にもつながるのだけど、安室さんの存在はアイデンティティーの形成にとても重要な存在だと思っているし、彼女が紅型になることでアイデンティティーのブランディングにもなると思いました。彼女はすごく美しい。
そして、彼女の持っているきれいな一面って、普通のうちなーの女の子たちにもあるんですよね。『あ、あの子と彼女、似ているな』『いとこに、中学の同級生に、幼なじみにこの部分が似ているなぁ』って。沖縄の女の子たちが持っている、共有している美しさも安室さんには自然にあって、一方で突出した、星のような位置付けという魅力も確実にある。無理やり架空の誰かを作るのではなく、実際に存在して、苦労話も含めていろんな経験をしてきた安室さんをモチーフにすることで、彼女の持つ求心力に、北極星のような位置づけという要素も組み合わされ、一つに集めることができたのだと思う。
◇「東京の安室奈美恵」ではなく
―安室さんの作品を作る時に、苦労した点は。
似せなきゃいけないという点が苦労しましたね(笑)。実は、彼女の顔写真を『紅型化』するのにすごく苦労しました。『紅型化』するって、型紙に作れないといけない。でもそれは写真をトレースして終わりではなくて、型紙として魅力的なものにならないと、紅型として認識されない。これってうまく説明できませんが、僕たちの中で分かっている紅型の形があります。そこにどうやって『安室奈美恵の紅型像』を当てはめるかが苦労しました。
最初の写真の安室奈美恵さんは『東京の安室奈美恵』なんですよ。僕のいとこや中学の同級生を思い出す安室奈美恵さんとはちょっと違う、洗練された、メークアップされた顔。結局、何をしたかというと、目とか口とかパーツを全部切り離したり、サイズを変えたりして、『福笑い』みたいに分解して最初から構成していきました。それで納得できる配置ができた。このステージでものすごく苦労しました。
紅型作家の金城宏次さんと一緒に作りながら、『これで紅型のスタイルになった』『型紙として納得いく構成になった』というところまで何度もやり直しました。最初の作品なので、すごく山あり谷ありだったけど、安室さんの顔が一番、紅型として成立している。立体感が他のものよりあります。リプロダクション(再生産)や複製されたイメージではなく、違うものになったと思います。
―作品の反響はどうでしたか?
安室さんのものは良かった。ただ比較するものがないからかもしれない。肖像画として、瀬長亀次郎さんや尚寧王、具志堅用高さんの作品と並べたとき、みんな『沖縄のヒーローなら謝名親方はいないの?』『(元知事の)大田昌秀さんはいないの?』って、言いたい放題(笑)。でも、見る人それぞれが議論することで、自分の『ヒーロー』を主張する場がつくれたらいいなと思っていました。有機的にそうなっていったところもあるのだけど、お互いに議論して、突っ込み、突っ込まれることがむしろ重要になっていく。
ずっと『沖縄の顔』を探していました。みんなが納得いくような『沖縄の顔』を。柱みたいな存在で、一つのものを共有することで、みんなが元気になったり、力強くなったり、アイデンティティー化されるイメージが、沖縄にとって絶対に必要だと思っていました。常に一つのものがある、という存在、共通するイメージをつくって、緩んで、またつくって、という繰り返しなのかなと思います。そういうことをどんどん提案して、みんながイメージできる肖像画をつくること。こういう『場』をつくって、みんなに議論させるステージをつくることを当時はすごく意識していたと思います。
◇「沖縄の顔」を追い求めた理由
―なぜ「沖縄の顔」、アイデンティティーの構築を求めたのでしょうか?
多分、またウォーホールにつながりますが、ああやって、顔がどんどん提示されて残っていく、プロトタイプがいっぱい作られていくって、ビジュアルの力だと思います。展覧会に来てくれた人が『瀬長亀次郎さんを見に来ました』という方がいて、似ていなくてもいい、でも見ることで思い出させてくれることを大事にしていた。これがないと、いつまでも心の中で都合良くどんどん変わっていく抽象的な存在になるけど、それをビジュアルとしてはっきり提示することで確認ができます。
反発も生まれるけど、反発も実は確認作業の一つだと思っています。とにかく視覚化する、沖縄の紅型の力を方法論にするという意味の必要性をすごく感じていました。そうすることで、議論をしていくことで『沖縄像』を強くしていくことができる。
なぜ、『沖縄像』を強くする必要があるかというと、沖縄は政治にずっと振り回されて疲弊してきた中で、過去のさまざまなリーダーの人達をちゃんと形に残すという行為をすることで、視覚的な歴史の積み重ねを構築することができると思いました。
やっぱり戦争で70年余り前にほとんどが焼き尽くされたのは本当にすごく痛いこと。これって、まだ僕自身も自覚が足りないくらい、損失があると思います。今はすっかりビルも立ち並んであたかも損失はないように見えるかもしれないけど、歴史上、こうやって沖縄を支えてきた人たちのイメージがないということは、魂がスカスカな状態になっていたのだと思います。
目に見えるビルの蓄積はあるけど、アイデンティティーの構造の蓄積を視覚的にしたい。アイデンティティーもプロセスや蓄積、構造を視覚的に見せていくことが必要なのではないかと思いました。それがない中のアンバランスさが沖縄で起こっているのではないか。だから、それをまずやらなければならないと。
―戦後、インフラはすっかり整い、沖縄の街もビルがたくさん並んでいます。
今、ビルや建築物の落とし穴にやっと気付き始める時代に来たのではないかと思います。戦争直後はとにかく造らないといけない、インフラが必要だった。でも、インフラが整ってから、それとは違う、失ってきたもの、放置されてきたもの、別なものに意識を向けるチャンスがやっと70年くらい過ぎて訪れた。こういう時代が来るという気配を感じていました。同時に、それには時間が必要だったんだと思います。
沖縄の人々が、何が抜けていたのか、何が足りないのかということを感じるには、ある程度順序が必要だったのだと。
◇魂の「中心」を埋めるものとして
いまだに政治家は『ビル』を造ることばかり主張して、『ビル=経済』となっていく。どんどん文化の精神世界、なくなったものや持って行かれたものを『戻す』ことを話すチャンスがなくなっていきます。逆説的な話かもしれませんが、まだやっぱり、『お金』『経済』『財布に余裕を持たせないといけない』というプライオリティがあるのかもしれないけど、努力してどうやって『お金』の世界に溺れている自分から、溺れている状況から距離を置いていくかも考えないといけない。
僕は当時、沖縄に帰ってたまたまそう感じるチャンスがあったから、こういう作品を提案できました。もし、ずっと沖縄にいたら、こういう作品は提案できなかったと思います。同じ世界に入っていたら、客観的に見られない。NYにいることでNYの人たちがどのように文化をつくって力強いものにしていったのか、僕の分かる範囲での理解、経験があったからこそ、それを積極的に生かそうと思ったところはあります。
沖縄の人が持っている、僕もそうだけど、『東京中心』に振り回されてきたことって、自分自身の精神やガッツの中心、よりどころを根こそぎ持っていかれて、そのまま流れている状態だと思います。魂の『中心』を与えられたもので埋めるしかないということが問題を起こしていて。それを埋めてく作業としての試みが安室さんでした。
アイデンティティーって、顔写真がなくても存在するといいと思うし、『同じ顔』を共有している人や写真がなくても思いがあることを、会話や議論を通して話すことで埋まっていくのではないかと思います。そこから、『私たちは私たち』というどっしりとした気持ちが出てくると思いました。作品を作った当時はその思いがとても強くありました。
例えば、アメリカの大統領、オバマを紅型にすることで、『オバマ(アメリカ)が沖縄を判断する』のではなく、『紅型がオバマを判断した』結果が、紅型側の審判だと言えます。結果的には沖縄のブランディングや紅型を売り込む形にもなるし、沖縄が何かを判断する『中心』になります。沖縄という主体が判断する、決定権を自分たちが持つということを意識に持っていくことを戦略的に考えていました。
◇僕が安室さんに聞きたいのは、沖縄のことかもしれない
―安室さんの楽曲にも「Hero」という曲があります。
僕は、実は少し影のかかったトーンになった気持ちをずっと引きずっています。日本で共謀罪法、特定秘密保護法の廃案、撤廃が訴えられていたころ、渋谷のスクランブル交差点でのデモの様子をずっとYouTubeで見ていました。その隣に、安室さんの大きなビルボードがとても対照的に写っている光景がずっと頭に残っています。共謀罪、秘密保護法、どれも沖縄の人たちをただちに弾圧できる法律です。それを巨大ビルボードに写っている、安室奈美恵さんはどう思っているのだろうと。
アーティストは、クラフトマンでも、デザイナーでもなく、時代の中の強いもの、弱いもの、見落としがちなものを、無意識、意識的に拾い上げ、発信する人たちだと僕は夢見ています。影響力、発言力があり、ダンサー、シンガーとしての安室さんの実績は言うまでもない。でも、あのYouTubeで、しきりに大学生たちが訴えて、対峙している現実と、ビルボードの彼女のイメージには大きな隔たりがありました。沖縄を思う気持ちから、何か影のかかった隔たりの映像の記憶がずっと僕の気持ちを覆っています。
『Hero』のミュージックビデオも、現実味のないゲームの世界があえて強調されているような感じがしました。安室さんが与える魅力は、美しさだけではないことをあらためて確認しましたが、渋谷のビルボードで見た不安を、またどこか感じざるを得なかった。僕が彼女に聞きたいことは、沖縄のことかもしれない。
ゲームの世界、架空の世界だけの『Hero』ではなく、現実の世界での『Hero』としての安室奈美恵さんのミュージックビデオができたら、もっと刺激的になるかと思い始めています。
僕の紅型では、伝統の美意識を、自意識の尊厳、そして僕たちの言葉としてのリーダーシップとして捉えています。僕たちの『英雄たち』を紅型に載せ、視覚的に、物として認識が残るように布に染め、かつて焼き払われたものを残るようにする。まずは、1人1人を形にして、人々の会話を導く。その手探りの一歩が安室奈美恵さんでした。
この作品を通して、僕の幼なじみのあの子の存在、気づき始めた紅型の魅力、沖縄の素朴さと力強さや、凛としたものを見いだすこと、現実の沖縄、等身大の沖縄と『英雄たち』をしっかりつなぎ止めようと思っていたことを振り返っています。
―9月16日のデビュー記念日に引退する安室さんにメッセージを。
その時代、時代で常に時間と一緒にいる人だったので、25年と言われないと意識しないくらい『常に一緒にいる存在』でした。アイコンというイメージもあったと思うけど、安室奈美恵さんにとっての『人としての時間』があったと思います。ありがとう、おつかれさまですと伝えたいです。今後、どんなことするのかという期待もあります。
世代観、年齢を見せないということも、プロフェッショナルとして全うしたことなのではないかと思います。引退されるとはいえ、安室奈美恵さんの社会からのニーズは変わらないと思うので、別のニーズに応えていく姿があるのなら、プレッシャーとしてではなく、とても期待しています。今までは『星のような存在』だった人が一緒に成長していける存在になるのかもしれません。『彼女なら今、どうするんだろう』と、いい意味で等身大を見られるチャンスがあるといいですね。
【プロフィル】照屋勇賢(てるや・ゆうけん) 1973年南風原町生まれ。多摩美術大卒。ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツ修士課程修了。ニューヨーク、ベルリンを拠点に活動。
座波幸代(ざは・ゆきよ) 政経部経済担当、社会部、教育に新聞を活用するNIE推進室、琉球新報Style編集部をへて、2017年4月からワシントン特派員。女性の視点から見る社会やダイバーシティーに興味があります。