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目標であり、ライバルであり、反面教師であり――。さまざまな親子のカタチがあるけれど、自分の人生は“母から自立できたとき”に始まります。そんな母と娘の関係について話を聞きました。題して「“母”が歩いた道、私が歩く道」。

 

「5人きょうだいの末っ子だった私が、いちばん母の影響を受けているかもしれません」

 

料理研究家の浜内千波さん(63)が高校卒業後に短大の栄養科に進んだ理由は、「母のように家族に喜ばれる料理を作りたかったから」。「母は私の理想なんです」と語る。

 

「実家は海の目の前で、漁業関係の小さな会社を営んでおり、両親は常に忙しくしていました。母は、旧家の跡継ぎ長女だったのですが、父と大恋愛の末、駆け落ちした女性。当然結婚式も挙げられず、大変に貧しいなか、苦労して私たちを育ててくれたんです。それでも母は、欠かさず料理を作ってくれました。末っ子だった私は母を占領したくていつもそばにいたのですが、台所で素材を吟味する母の姿は、いまでも目に焼き付いています」

 

質素倹約の暮らしのなかで、工夫しながら料理をしてくれたという浜内さんの母。地元・徳島では端午の節句に盛大なイベントが行われるが、フノリから寒天を手作りしたフルーツ味のデザートや、卵を桜色に染めて花の形にあしらった卵焼きなど、工夫をこらした3段重ものごちそうを、5人全員に1つずつ作ってくれたという。

 

「さつまいもや里芋にあんを着せておはぎのようにいただく郷土料理の『出世芋』や、金時豆のちらしずし。先日、期間限定発売の『阿波の国の満足膳』というお弁当を監修させていただきましたが、できるだけ母の味を再現しました」

 

とめどなくあふれる母の味の思い出。それはまさに「幸せと愛」の記憶であり、今も浜内さんの心のよりどころになっているという。

 

「実家を出てから、いかに母が私たちのために心を尽くしてくれていたかがわかりました。いつの時代も親が子どもを思う気持ちにまさるものはありませんが、それを継続して伝えられるのが、毎日のお料理だと思っています」

 

7年前に亡くなった母の味を「もう食べられないの」と涙ぐむ浜内さん。短大卒業後は3年間のOL時代を経て料理の世界に飛び込むが、目指したのは「家族の健康を守れる料理を作ること」。

 

「実はすぐ上の兄が小学校6年生で他界しまして、そのときの母の嘆きようは今も忘れられません。以来、私が風邪ひとつひいてもすごく心配されました。家族の健康を守ることがいかに大事かを、身にしみて学びましたね」

 

その後独立し、クッキングスクールを開校。母から受けた「幸せ」の記憶を、いまも伝え続けている。女性の自立が難しかった時代に、人気料理研究家となった浜内さん。その視線の先には、常に台所に立つ、あの日の母の姿がある。

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