「とても頭の切れる方でした。だから、あの早野龍五氏が原発事故や被曝についてツイッターで発信していると知り、注目していたんです」
こう語るのは、高エネルギー加速器研究機構(KEK)の物理学者、黒川眞一名誉教授。
黒川さんは伊達市民の個人被曝データに関する論文について数々の誤りと問題点を指摘している。その論文の著者は東京大学名誉教授の早野龍五氏。共著者は福島県立医大講師で、伊達市の市政アドバイザー・宮崎真氏だ。
黒川さんは40年ほど前、早野氏と共に素粒子物理学の研究をしたことがあるという。ところが早野氏が14年に出版した『知ろうとすること』(新潮文庫)を読んで仰天した。
「彼はこの本で、あきらかにいくつかのウソを書いていた。たとえば、『福島原発事故のときより大気圏内核実験のころのほうが、放射性降下物は多かった』と述べている。しかし、私がデータを調べたら全く事実と異なっていました」
こうした経緯から、早野氏が福島県伊達市民の被曝に関する論文を出す、と聞いた黒川さんは不安を感じていた。
伊達市では、仁志田前市長が11年からガラスバッジと呼ばれる個人の線量を累積する線量計を、子供を中心に配布。12年から1年間は、約6万人の全市民に配布し、個人線量を検証した。仁志田前市長は、『国が除染の目安とする空間線量率、毎時0.23マイクロシーベルトを超えていても、個人の年間追加被曝線量は、一般人の限度とされる年間1ミリシーベルトを超えない』として、除染するはずだったエリアの除染を取りやめた。
早野氏らは当時測った累積線量のデータを使って、伊達市民の個人線量と航空機調査による空間線量率との関係を示した論文(第1論文)や生涯の個人線量と除染の効果を検証した論文(第2論文)を発表している。
それらの論文について黒川さんは「彼らの論文は、物理学の論文としての体をなしていない」と語る。
「第1論文の最後部分にこんなことが書かれています。《各参加者が実際に住民登録された住所に住んでいたのか、(中略)ガラスバッジを正しく装着していたか不明である。(中略)それゆえ厳密にいえば、ガラスバッジで測定された値は、必ずしも実際の個人線量と等しいとは言えない。これは、この論文の限界であるといえる。しかしながら私たちは、それらが(中略)得られた結果に大きく影響しないと信じる。》」
こんな文言があったら学部の卒論レベルでも落第するレベルだという。
「彼らは自ら、参加者が登録された住所に住んでいたか、ガラスバッジを正しく装着していたか不明である、と論文の限界を認めています。にもかかわらず、そうしたことは論文の結果に大きく影響しないと“信じる”と言っている。物理学の論文で“信じる”などというあいまいな言葉を使ってはいけない。それに、結果に“大きく影響しない”というなら、“大きく”の誤差が、もとの3倍なのか5倍なのか、その数字と根拠を示さないといけません」
そして論文の問題点をいくつか指摘してくれた。
「伊達市民の個人線量と航空機調査による空間線量率との関係を示した、第1論文の図4(この記事では図A)を見てください。左から2番目に薄い黒丸だけの部分があります(1)。これは、統計において大きく外れた値のことで、ここでは99%以上の人の被曝線量が、ゼロ(不検出)だったことを示しています」
5千人いたら4千950人の被曝線量がゼロというわけだ。
こんなことは統計のゆらぎでは説明できないほど起こる確率が小さい。それなのにこのようなところが3つもあるのは、何らかの解析過程での誤りがあることはほぼ間違いがありません、と黒川さん。
「先のようなおかしなところはいくつもあり、それらは結果的に個人の被曝線量を過小評価することになるのは間違いない。これをもとに政府の政策を決めるのはとんでもないし、それ以上に被曝を平均で考えるのがおかしいんです」
図Aを再び見てほしい。
「突き抜けている線があるでしょう(3)。おそらく年あたりに換算すると10ミリシーベルトの被曝する人が何人もいるはず。また、子供と大人では、被曝に対する耐性も違います。そこを考慮していないのが問題なんです」
今回、早野氏らが誤りを認めた、伊達市民の、生涯の個人線量と除染の効果を検証した第2論文にも、「ねつ造と思われてもしかたない」という図や数値が複数あるという。
そのひとつが、除染の効果が少ないことを示す第2論文の図6(この記事では図B)だ。黒川さんは指摘する。
「図6は伊達市でもっとも線量が高いAエリアに住んでいた425人を対象に、事故から7~38カ月の個人の被曝線量と、空間線量率(曲線)の関係を示しています。除染前の、事故後17カ月間と、除染後の、事故後23ヶ月を比べると、後者のほうが、個人線量の分布を示す“箱”の位置が急に低くなるのがわかります」
これは除染の効果があったことを示している。
「ところが図6では、本来の計算式から導き出される値より約20%低い空間線量率(下の曲線)がかぶせられていて、個人線量の中央値が除染後に空間線量と同じくらいになってしまい、除染の効果がわかりづらくなっています。しかも、なぜ約20%低く見積もったのか、論文にその根拠も示されていません」
黒川さんは、「少しでも除染の効果を低く見せるための印象操作ではないか」と推察する。
以下は、その根拠だ。
「論文には、この曲線は空間線量の中央値と係数0.10を使って描いたと一応説明されています。ただ、そうだとするとおかしなことになります。論文には空間線量の平均が2.1μSv/hであると書かれているからです。図から計算すると中央値は3.3μSv/hとなります。このような被曝線量の分布では、中央値は平均値より必ず小さくなければならないからです」
そもそも、この時期は、Aエリアに住む多くの住民は避難していたので、正しく評価することは難しい。実際に、伊達市発行の『3年間の記録』にも、12年1月時点で、Aエリアの特定避難勧奨地点の住民68%が避難しているとある。
黒川さんは第2論文の問題点を10個ほど指摘する批判論文を、18年8月に論文を発行した出版社に投稿。それは11月には早野氏にも送られたが、いまだに正式な返答はない。
早野氏は先月8日、文科省の記者クラブ宛てに、「70年間の累積線量計算を3分の1に評価していた。初めて気づいた。意図的ではない」などと2枚の声明文を発表。一方で東大でも本格調査が始まり、伊達市でも第三者委員会による調査が始まった。
本誌の取材に早野氏は、「東大の本格調査や、伊達市の第三者委員会は始まったばかりなので、現時点で申し上げられることはございません」とメールで返答。
個人データを提供したとみられる伊達市は、「調査委員会で調査を進めているが、データ提供について不明な点があった」と回答。
論文共著者の宮崎氏は、「同意を得ていないデータが含まれていることは把握していなかった」。第2論文の誤りについては、「伊達市民及び住民の方々、関係者の皆様に深謝します。伊達市の行う第三者委員会に全面的に協力します」と、メールで返答した。
第3論文が研究計画書通りに発表されなかったことについては「内部被曝調査の結果で、ほとんどの方から有意な数値が出ていない。有意な結果だけ用いたのでは代表性にかけるとの意見を伊達市からいただき論文化に至らなかった」と回答した。
このように、疑惑と偽りの多い“宮崎・早野論文”を、放射線防護の参考資料として採用していたのが、原子力規制委員会の諮問機関でもある“放射線審議会”だ。
放射線審議会は1月25日「宮崎・早野論文には同意のないデータが使用されていた」として、参考資料から削除する決定を下した。しかし一方で、「学術的な意義において全否定されるものではない。本審議の結論には影響しない」といった見解を表明した。
つまり、個人線量での被曝管理は過小評価にはつながらない、という“早野・宮崎論文”の結論を踏襲するということだ。
黒川さんは強い口調でこう述べた。
「早野さんは、私の反論論文を読んでいるわけだから、なんの反応もないのはおかしい。学者なら早く、私に対してきちんと回答するべきです」