(後列右から)オーナーのワコさん(赤嶺嘉和さん)、日笠和彦さん、呉屋斉さん、平良茂信さん、(前列右から)長嶺純さん、桃原喜秀さん 画像を見る

 

80年代を席巻。“大人”のためのディスコ、現在も営業中!
Disco Eilly(ディスコ エイリー)

 

1979年11月23日。 かつて国際通りのランドマークだった那覇タワーに「ディスコ 80(エイティー)」(現ディスコ エイリー)がオープン。当時は多くの人が押し寄せ、中に入りきれない人たちの長い行列ができたという。あれから40年、今もってエイリーは健在だ。「ここまで続けてこられたのは、お客さんやスタッフのおかげ」だと4代目オーナーのワコさん(赤嶺嘉和さん)は繰り返し話す。およそ40代後半以上の「大人」へ向け、「あなたたちの青春はここにありますよ~」と笑顔で両手を広げた。

 

ディスコ エイリーは那覇タワーから始まり、フェスティバルビル(1996年那覇オーパに改称)、そしてエスプリコートビルへと移転し、現在に至る。ディスコ全盛時代と変わらず80年代の音楽をメインにかけ、当時の客もいまだに訪れるディスコの老舗だ。

 

未来の夢に思い寄せ

 

沖縄で生まれ、3歳から18歳までを県外で過ごしたオーナーのワコさんは、高校卒業後、兄の営むサーフショップを手伝うため沖縄に戻ってきた。たまたま客にエイリーの従業員がいて、「遊びにおいでよ」と誘われたことがきっかけで19歳のときエイリーでアルバイトを始めた。1981年のことだった。

 

長年、県外に住んでいたこともあったせいか、「言葉がきれいだからDJやってみたら」と言われ、ディスコの花形といわれるポジションに興味もありDJを始める。当時はトークを挟みながら曲をかけるのが主流で、県内に「つなぎ」(曲と曲の間を切れ目なくつなぐこと)が浸透していない時代。ワコさんは3カ月の休暇をもらい、東京のディスコへ行き勉強した。

 

DJブースに張り付いて「この曲からこの曲につないでいる」などとメモを取っていると、DJから「何してるの?」と聞かれ、「沖縄にはこういう技術がないので勉強しに来ました」と言うとブース内へ招き入れ教えてくれた。

 

沖縄に戻り、先輩DJと毎日のように練習に明け暮れ、「2週間後、ようやく『つなぎ』ができるようになってコツがつかめてきた」と振り返る。「つなぎ」が完成すると他店のDJも見に来るなど話題となり、エイリーの人気は爆発した。

 

数年後、エイリーを辞めたワコさんは、扇子を振って踊る90年代の「お立ち台」ブームに乗って、ディスコ「シュガーヒル」をオープン。大繁盛するが、その一方でエイリーは閉店に追い込まれていた。エイリーの元支配人から相談を受けたワコさんは、共同経営者として再生に乗り出し、エイリーを復活させた。

 

ワコさんにとってエイリーは原点であり、自分を育ててくれた場所だ。

 

「先輩方が作り上げてきた店を引き継いだわけだから、ものすごい重圧を感じています。今でもスタッフだった先輩が来て『ワコさん頑張ってね、エイリーを残してよ』と言われると身が引き締まる思いです」と真剣なまなざしで話す。エイリーを存続させるため、「若いスタッフたちが引き継いでいけるようできる限りのことを伝えていきたい」と未来の夢に思いを寄せた。

 

お客さまに感謝

 

現在、ワコさんはレジェンドDJといわれる50代以上の人たちに活躍の機会を作っている。那覇市のザバレス、バースデー、コルドンイエロー、スクランブル、沖縄市のピラミッド、ハリウッドなどにいた名だたるDJたちに、ホテルのディスコイベントやエイリーのイベントへ参加してもらうべく声を掛けているという。

 

「DJという職業が若いときだけではなく、いくつになってもできるんだという前例を作っている」といい、これからも今までになかったことをしていきたいと意欲的だ。

 

これまで数々のディスコができ、そしてなくなっていった。そんな中、わずかな期間閉店したもののエイリーはいまだ生き延びている。

 

ワコさんは「これまで関わってきたスタッフや、お客さんのおかげです。ディスコからクラブといわれる店が増えた90年代も『私は“ディスコ”エイリーが好きだから』といって足を運んでくれるお客さんがいた。昔からの常連さんが50歳、60歳を過ぎても来てくれる。本当に感謝ですよね」と感慨深い表情を見せた。

 

エイリーをいつの時代にもつないでくれている人たちがいる。一ディスコファンとしても、「大人」が楽しむ「ディスコ」が長く続くよう願いたい。

 

(崎山裕子)

 

(2019年5月16日付 週刊レキオ掲載)

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