米兵を前に身を震わせる少女―。米軍が撮影した沖縄戦の記録映像に収められ、沖縄戦を取り上げた映像作品でもたびたび映し出される少女について、浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)=那覇市小禄=が22日までに「これは私だ」と名乗り出た。当時、高嶺村大里(現在の糸満市大里)にいたという浦崎さんは本紙の取材に「初めて見るアメリカーの青い目が怖かった」と証言。終戦以来74年ぶりに米兵と遭遇した場所を訪れ、家族4人を失った過酷な戦争体験を振り返った。
NPO法人「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」で当時、編集にかかわった元琉球大学非常勤講師の山内榮さんは「映像は沖縄戦の末期に豊見城市以南で撮影されたものとみられる。証言の内容からも撮影された本人である可能性は非常に高い」と指摘した。
浦崎さんの証言によると、撮影されたのは1945年6月下旬ごろ。高嶺村大里の農道付近で2人組の米兵にカメラを向けられた。当時7歳だった浦崎さんは、15歳上の姉と避難先を探している途中だった。
その直前まで母と姉、弟と4人で同村与座(糸満市与座)にあった実家の墓を避難壕代わりに身を隠していた。だが、米軍の攻撃が激しさを増す中、同様に墓に避難していた隣家が砲弾を受けたのを知り、一家で墓を出た。
母は弟と、浦崎さんは姉と共に、二手に分かれて行動を取ることに。米兵と遭遇したのは、母と弟の安否を気に掛けて様子を見に戻った姉を待ち、1人でいる時だったという。
当時の心境について浦崎さんは「アメリカーを見るのは初めてだった。青い目が怖くてぶるぶる震えていた」と振り返った。
◇戦の恐怖消せない 74年前の足跡たどる
沖縄戦の悲惨さを映像で強烈に印象づけた「震える少女」。74年を経て名乗り出た浦崎末子さん(81)=那覇市小禄=の脳裏には今も、砲弾が飛び交う戦場を逃げ惑ったつらい記憶が刻まれている。不安の中で家族と過ごした墓、米兵を目の前にした時の恐怖。浦崎さんは元琉球大学非常勤講師の山内榮さんと共に17日、糸満市与座、大里を回り、当時の足跡をたどった。
「あんねーる戦(いくさ)でぃ、むるうらんなてぃ(あんな戦争でみんな死んでしまった)」
浦崎さんは雨にぬれる歩道にたたずみ、つぶやいた。視線の先には映像が撮影されたという道があった。家族で身を寄せていた実家の墓から約700メートルの距離を泥まみれになりながら歩き、たどりついた所で米兵と遭遇した。映像の少女は米兵に差し出された水筒に口をつけ、水を飲むようなしぐさを見せていた。浦崎さんによるとビスケットも差し出されたが、いずれも手をつけなかった。
「アメリカーからもらう物には『毒が入っている』と聞いていた。日本兵が配ったビラにもそう書いていると姉から聞いていたから、何も口にしなかった」
2005年、戦後60年の節目で放送された沖縄戦に関するテレビ番組を見て映像に気付いた。「自分に似ている」と思ったが、確信は持てなかった。
2年前、知人が持って来た映像の静止画像を見て鮮明な記憶がよみがえった。着物の柄を見て「自分が着ていたものだ」と思い至ったという。
映像が撮影された後、越来村(現・沖縄市)にあった米軍の収容所に姉とともに収容された。母と弟にも収容所で再会したが、弟は避難先の自然壕で受けた催涙弾の影響でその後亡くなった。防衛隊に徴集された父と兄、さらには戦時中に受けた傷がもとで姉も亡くした。浦崎さんは「弟は病床で『オーオーオー』とうなって死んでいった。戦争は本当に恐ろしい。またんあてーならん(二度と起こしてはいけない)」と声を落とした。
(安里洋輔)