「僕は運がよかったんですよ。それに自分でいうのもなんだけど、いざとなると、開き直ってしまって……。いい意味での図々しさは持ち合わせていると思いますね」
72年7月、本誌でこんな成功の秘訣を語っていたファッションデザイナーの高田賢三さん。20年10月4日、新型コロナウイルスの合併症によって死去した。81歳だった。
人気ブランド「KENZO」の創業者である賢三さんの功績は大きく、モデルの冨永愛(38)はInstagramで《悲しみに暮れています》と投稿。また布袋寅泰(58)や辻仁成(61)、さらには加藤勝信官房長官(64)が追悼コメントを発表している。
賢三さんは00年8月にも本誌に登場している。当時30年にもわたり務めてきたデザイナー生活に一旦ピリオドを打った時期であり、そのタイミングで自身の半生を回想している。
兵庫県姫路市に生まれた賢三さんは、姉の影響で少年時代から洋服やデザインに憧れていたという。
「僕は小学校に入った年に終戦を迎えたんです。子どものころは綺麗なものが何もなかった時代だったので、綺麗なものに憧れを抱いていたんです」
地元に男子を受け入れる服飾学校がなかったため、やむなく神戸市外国語大学に進学。しかし、その数ヵ月後に東京の文化服装学院が男子学生を募集するという広告を発見した。
そして、両親の反対を押し切って上京。同学院への入学を果たし、コシノ・ジュンコ氏(81)など、のちにファッションシーンをリードする顔ぶれと共に学ぶこととなった。
卒業後はアパレルメーカーに勤めていたが、そんななか25歳の時に転機が訪れる。住んでいたアパートが建て直しとなり、住民に多額の立退料が支払われたのだ。そこで「フランスのファッションを自分の目で見てみたい」と渡仏を決意する。
「フランスで仕事ができるなんて、出発前には想像もしていませんでした。パリで太刀打ちできるわけない、と」
しかし、オートクチュールの名門「ルイ・フェロー」にデザイン画を持ち込んだところ大評判に。雑誌「ELLE」でも高い評価を受け、仕事先まで紹介された。
すると渡仏から4年後、コシノ氏らが東京で店を持ち始めたというニュースが。同級生の活躍に刺激されたことで、70年に「ジャングル・ジャップ(KENZOの前身)」をオープンした。
“和”のエッセンスを取り入れたセンスはファッション界を席巻し、大成功を収めることに。いっぽうで、賢三さんはこう話す。
「つくることには喜びがあったんですが、お金のことは……。創作やショーのことばかり考えていて、月末になるとお金が足りないことに気づいて、借金をしてスタッフに給料を支払うと、僕の分はなくなってしまう。そんなことが何年も続いたんです」
また80年代にボディコンブームがやってきた。「ボディコンは男性から見た女性の魅力を際立たせる服作り。僕はそうした異性にこびる服はもうやめようと登場したわけだから、全く違う方向性の服作りに焦ったし、恐怖心さえ覚えました」と回想している。
苦悶の日々を仲間に励まされ乗り越えたが、90年代に入ると公私にわたってパートナーだったグザビエ・ドゥ・カステラさんが死去。“右腕”だったパタンナーの近藤淳子さんも脳梗塞に倒れた。賢三さんは社員500人を抱える「KENZO」の経営に忙殺され、創作との狭間で思い悩むことに。
さらに銀行の所有していた株が知らないうちに売却され、93年にルイ・ヴィトンなどを擁するLVMH社の傘下に入ることとなった。
「その辺りから区切りをつけたいという気持ちが出てきました。ファッションを少し離れたところから見てみよう、と……」
そして99年、LVMH社とのデザイナー契約を“更新しない”と決意。そのため、賢三さんは当時「無職なんです」と笑っていた。
夢へと突き進みながらも、苦境に立たされることも決して少なくはなかった賢三さん。「今まで難しい決断を幾度も迫られてきました」と述べつつも、こう続けている。
「でも、大きな冒険をしている時の決断はうまくっているような気がするんです。夢に向かって下した決断はうまくいっている。夢を諦めなくてよかった、手放さなくてよかった、と若いころを振り返って思います」
その後、02年にその名も「YUME」というブランドを発表。近年では16年にセブン&アイ・ホールディングス傘下のそごう・西武及びイトーヨーカドーのプライベートブランド「SEPT PREMIERES」を展開し、今年1月にも「K3」を立ち上げていた。
「賢三さんは晩年も『若い人との仕事をもっとしたい!』と意欲的で、空間デザインへの興味もありました。また『自分が着たいと思えるメンズ服をデザインしたい』とさらなる夢も語っていました」(ファッション関係者)
夢を追い続けた賢三さん。81年の生涯を通して、多くのものを生みだした。