コザ騒動当時のことなどについて語る金城恵美子さん 画像を見る

米統治下の沖縄で人々が怒りを爆発させた。約80台の米軍関係の車両を焼き打ちした「コザ騒動」から今年で50年。騒動後、経済制裁のように米兵たちの市内への立ち入り禁止措置が発令された。基地によって経済が成り立っていた街は大打撃を受け、米軍から派生する商売で生活が成り立っている人とそうでない人で溝が生まれた。なぜあの事件が起きて、その後何が起きたのか、主に女性たちの証言から見つめ直す。
(玉城江梨子)

 

歓楽街から人が消えた

 

50年前のクリスマスイブ。当時沖縄で最大の歓楽街だったコザ(現沖縄市)の街はネオンが消え、ゴーストタウンと化していた。

 

1970年12月20日未明、5千人もの群衆が米軍関係車両を次々と焼き払ったコザ騒動後、米軍は兵士たちにコザ市への立ち入りを禁止する「コンディション・グリーン・1」を発令。オフリミッツとも呼ばれ、事実上の経済制裁といえる米軍の措置だった。基地によって経済が成り立っていた街は大打撃を受けた。米兵相手の店はシャッターを閉め、街から人が消えた。

 

複数のクラブなどを掛け持ちして働いていた雛世志子(ひな・よしこ)さん(89)=当時39歳=の勤務先も一時閉店した。「その間は収入がない。閉店が長引くほど生活は困った」

 

コザ商工会議所がまとめた「コンディショングリーン発令中の損害とその影響について」によると、12月20日~29日までの売り上げの落ち込み率が最も大きかったのは米兵向けの飲食店「Aサインバー」で100%。質屋92・4%、ホテル・旅館85%、レストラン80・5%、時計店77・1%と続き、全業種では63・6%の落ち込み率だった。あらゆる業種に影響が及んでいることからも当時のコザ市の経済全体がいかに基地に依存していたかが分かる。

 

言えなかった違和感

 

コザ騒動当時、高校生だった金城恵美子(きんじょう・えみこ)さん(67)=当時17歳。学校では現場を見た同級生たちが興奮気味に話していたり、授業で話し合ったりした。「沖縄人の怒りが爆発した」と騒動を肯定的にとらえる意見に、金城さんは違和感を抱いていた。金城さんの親は米兵相手の店が立ち並ぶセンター通りで米兵相手の宝石店を営んでいた。「怒りは分かる。米兵も嫌い。でもこれが正当なやり方なのか」と暴力を正当化できないという思いと、「米軍がいなくなっても困る」という生活の糧としての米軍の存在を否定することができないという負い目のような感情も抱えていた。しかし、「これはずるい考え」といった思いも交錯し、自身の考えを口にすることはなかった。

 

店舗と自宅のあるセンター通りは夜になると酔った米兵であふれた。金城さんの両親は「米兵が多いから危ない」と娘たちに帰宅後は外に出ることを禁じた。通りには店が流す音楽だけでなく酔った米兵の話し声、怒声、笑い声が一晩中響き、とにかく騒がしかった。けんかをしてビール瓶を投げつける者もいた。翌朝になるとガラス片があちこちに散乱していた。「米兵は大きいし、何をするか分からないから怖かった。ここに来て酒を飲むか、女を買うか―の米兵が嫌だった」

 

米兵は嫌いなのに…

 

自分の同年代の少女がレイプされ殺される事件もあった。向かいの店のオーナーは米兵のけんかの仲裁に入り殺された。「この2つの事件は衝撃というか、許せなかった」

 

事件事故があっても裁かれない米兵への怒りを感じながらも、自分の生活はその米兵の落とすお金によって成り立っているという矛盾。ほかの人のように「基地反対」ともろ手を挙げて言えない苦しさ。高校生になると「なんで私は毎日ここに帰ってくるんだろう」「私って何?」と自らに問うた。

 

その後のコザ

 

騒動後、街への経済制裁のように発令された「コンディショングリーン1」で、米軍から派生する商売で成り立っている人とそうでない人でコザは割れた。日本復帰を前にした不安もあり、住民同士の溝が深まっていった。

 

72年の日本復帰、ドル価格の下落などでコザの街の基地への依存度は次第に低くなっていった。沖縄全体の基地経済への依存度も72年の復帰時に15・5%だったのが、2016年度には5・3%と大きく減った。

 

コザ市は74年に隣の美里村と合併し、沖縄市となった。

 

かつてのようなにぎわいは今の沖縄市にはない。高校生の頃、この街に息苦しさを感じていた金城さんは、両親が営んできた店を数年前に継いだ。母となり子を育てるうちに自分の気持ちにも整理がつき、この街で暮らす人々のたくましさにも気がついた。「本当に閑散として、街がつぶれそうなんだけど、なぜかいとおしい。不思議な街」とほほえみながら通りを見つめる。

 

かつてのにぎわいが消え、今は一部に横文字の看板が残るものの、他の街と同じようなスーパーやファストフード店が立ち並び、一見すると普通の地方都市となった街。「コザ騒動」を目撃し、今は修学旅行生たちに沖縄市の街や歴史を案内する古堅宗光さん(73)は「コザは沖縄の矛盾が凝縮された街だ」と言う。基地から大きく恩恵を受けながらも、同時に基地からの被害も大きく受けてきた街。「衝突、アイデンティティーの揺らぎがあったからこそ、ここは優しい街だ。コザは人にレッテルを貼って区別しない。違いを認める力を持っている街だ」と胸を張る。

 

「コザ騒動」の歴史的評価は定まっていない。用語一つとっても「コザ騒動」「コザ暴動」「コザ事件」「コザ民衆蜂起」と割れている。現在、「沖縄市史戦後編」の編纂に取り組んでいる沖縄市史編集担当の伊敷勝美さんは「コザ騒動は見えていない部分もたくさんある。現場にはいなかった女性や子ども、米兵の妻たちはどう捉えたのか。米軍の沖縄政策にどのような影響があったのか。あれを境に何かが変わったのか。変わらなかったのか。それを明らかにしていきたい」と話した。

 

今年12月18日、ある1件の事故の真相を究明できないまま、沖縄県警の調査が事実上終了した。3年前の12月7日に宜野湾市内の保育園に米軍ヘリの部品が落下した事故だ。当時園庭では子どもたちが遊んでおり、落ちた場所が少しずれていたら子どもたちに被害が出ていた可能性がある。当初から米軍はヘリの部品であることは認めたが、部品が紛失していないことや、当時使用していない部品であることなどを理由に部品落下は否定。ではこの部品はどこから落ちてきたのか―。子どもの命が危険にさらされた保護者たちは事故の真相究明をしてほしいと訴え続けている。県警は今年に入り実証実験を実施。18日に県警が公表した結果が「上空からの落下物とは特定できなかったが、その可能性を否定するものでもなかった」というものだった。

 

この玉虫色の結論になったのは、米軍の言い分を沖縄県警が客観的に検証するすべがないという日米地位協定の壁があるからだ。2004年に宜野湾市の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した時も県警は初動捜査ができず、被疑者不詳のまま書類送検して捜査を終えざるを得なかった。「コザ騒動」の頃に比べると現在は日本国憲法が適用され、インフラ整備が進むなど沖縄を取り巻く環境は変わったように見える。しかし、憲法にうたわれる基本的人権が保障されているかも含めて、「コザ騒動」から通底する不条理も、変わらず存在し続けている。

 

この企画は琉球新報社とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。

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