1952 ひめゆりの塔慰霊祭。倒壊した乙女像の台座が見える 画像を見る

同じ場所で撮影したタイムスリップ写真から変貌を読み取る。
レンズを通して見る街並みや建造物は、当時の生活や世相を映す鏡。現代にも息づく街の魅力とパワーを再発見しよう。

 

沖縄アーカイブ研究所のブログでも紹介している「1952年のひめゆりの塔 慰霊祭」の映像は、何度繰り返し観ても心がかき乱される。最近の慰霊祭映像でも、もちろんいろいろな思いはあるのだが、この時代はちょっと特別なのだ。その違いは何かと言えば、映し出される参列者が皆、戦争を体験し生き延びた喜びと、大切な人を失った深い悲しみの両方を抱えているということだろう。

 

映像には、ひめゆり学徒の恩師・仲宗根政善氏や、20代に成長した元学徒の女性たちの姿も見える。彼女たちは後に「語り部」という〈思い出したくもない記憶〉を語り継ぐ重要な仕事を背負うことになるのだが、悲劇を人々が共有するこの時代には、そんな重荷を背負うことはなく、ある意味それが平和な一時であったのだろうかと思えてしまう。悲劇と平和が同居する場所。それもまた複雑なのである。

 

さて戦後7年目のひめゆりの塔は、その周囲にまだ戦後の焼け野原に雑草がのびたような状況で、戦争の痕跡を生々しく伝えている。

 

ブロック製のヒンプンの様に見えるのが慰霊碑だ。この5年後に現在の百合のレリーフがついたモニュメントになるが、この時代はまだ質素なつくりである。慰霊碑の上に付きだした部分があるが、これは前年に設置したものの台風で倒壊した玉那覇正吉の手による乙女像の台座部分だと思われる。一方、正面に置かれた羽根のある彫刻は、この年に除幕式が行われた「女神の像」で、こちらはすぐに収納ケースに収められ、慰霊碑のそばで現在も展示されている。あと慰霊碑の周りには卒塔婆(そとば)のような木製の碑がたくさん並んでいるのが目に付く。当時は参拝者が思い思いにこういった碑を建立していたようだ。それだけに誰もが深い思いをこの場所に抱いていたのだろう。

 

戦争を知らないわれわれが「語り部」を引き継ぐこれからの時代。この映像を観て、当時の人々の想いに心を寄せていきたいと思う。

 

執筆:真喜屋 勉(まきや つとむ)
沖縄県那覇生まれの映画監督であり、沖縄の市井の人々が撮影した8ミリ映画の収集家。沖縄アーカイブ研究所というブログで、8ミリ映画の配信も行っている。
https://okinawa-archives-labo.com/

【関連画像】

関連カテゴリー: